農耕民族、狩猟民族という分類は正しいか?

「日本人は農耕民族で、欧米人は狩猟民族――」といった文章を割りと見かけるが、よくよく考えるとこれはおかしい。
 
 まず欧米人は狩猟民族ではない。例えば、アメリカ人はたしかに肉食かもしれないが、あれは牧畜によって手にした牛や豚の肉を食っているのであって、野原にいる牛を追い掛け回しているわけではない。ステレオタイプアメリカ人というとウェスタンハットで銃を持ってというイメージだが、そんなカウボーイのフードといえばハンバーガー。でもハンバーガーはパン(小麦粉が原料)、牛肉(牧畜で入手)、レタス(畑で入手)と狩猟の要素がない。まぁ、ネイティブアメリカンを指して狩猟民族というのならあながち間違ってもいないが、ネイティブアメリカンをテレビで見たり、一緒に仕事をしている日本人など見たことがない。

 また日本人も農耕民族ではない。こんだけ海にかこまれていながら漁業をまったく行わないほどバカじゃないだろうし、大陸から分断され他の文明と出会わない日本人が自分たちの知識だけで農作をできるほど先進国であったなども考えられない。むしろ、日本の古代の地層では縄文土器が発掘され、貝塚が発見されている。草(野生)を煮込んだり、貝(海辺に落ちてる)を食ったり、木の実を採集したりと、農耕生活より以前に狩猟採集をしていた文明がある事が分かっている。

 それでは、なぜこのような誤解が広まったのだろうか?それは、農耕民族による狩猟民族差別があったからに他ならない。

 日本人は先述したように原始的な狩猟採集の生活をしていた。縄文土器は火をモチーフにした装飾があり、おそらくこの土器を鍋として野菜や魚を煮ていたものと思われる。この文明では火が神聖視されていたのだろう。いわゆるアニミズム文化(自然崇拝)だが、このアニミズムは農耕民族のアニミズムとは若干違うのである。

 やがて時が進むと大都会である大陸(分かりやすく言うと中国や韓国のあるユーラシア大陸のこと)から稲作の文化がやってくる。つまり農作だ。この農作では植物に関する知識、天候に関する知識が重視される。データの蓄積によって物事を解決する。要するに学問のはじまりだ。狩猟民族の世界では狩りに行けるのは自然の驚異に体力的にも精神的にも立ち向かえる勇気あるもの=若者だが、農耕民族ではより多くの知識と経験を持った年寄りが重視された。またこの農作文化では米を作るために土地を開発する必要がある。狩猟はトラがシカを狩るように自然の一部に自分も入り、その摂理の中で生きていくやり方だが、農耕は自然を頭脳によって支配していく方法論である。そのため、農耕民族の自然崇拝とは木々や動物といった意味での自然崇拝ではない。稲作に関係のある太陽や水の神が崇拝されるのだ。例えば、古代エジプトが上げられる。エジプトはナイルのたまものという言葉があり、ナイル川という農作物を作るには適した環境があった。また、エジプトにはそのものずばり太陽神ラーが存在する。

 稲作によって人類は食料の生産術を覚えた。だが、この生産は自然の影響をもろに受けるため、自分の土地には災害の被害で何の収穫も無かったが、となりの畑ではいつもよりたくさんの収穫があったというような貧富の差が生まれることになる。すると怖いのはねたみによって自分の作物のとれる土地を奪われる事である。そこで、より多くの人を自分の土地に呼び、警備に当たらせる。当時のパンピーは天候の知識なんてほとんど持たなかったのだから、天候を読む技術を学び、明日の天気を的中させ、「私は天気=神の感情を読める。なぜならば私は神の子だから」といった適当な事を言って、部下を揃えれば良い。土地の所有権は共有するが、支配権は知識階級が持つ。これがいわゆる身分となっていく。支配者(王)を中心に労働者(民)が頑張る世の中だ。

 さて、あなたはもうおわかりだろう。日本の最高神がなぜアマテラスなのか、邪馬台国を治めていたのが卑弥呼という女性の王だったのか。つまり古代の王とは武力を持った者ではない。農耕民族の長として天候を読み、最善策を提示できる者を王と呼んだのだ。世の中でキリストだ三国だと言われている中、ド田舎の日本で天候を読める天才的な知能を得た女がカリスマを持っていたとしても不思議ではない。そして卑弥呼は大陸と交流をしており都会の技術をそのまま田舎で披露する事で自らのカリスマ性をさらに高めていったと考えられる。この時代の日本人はいわばグローバリズム派の弥生人と、ネイティビズム派の縄文人として別れていったに違いない。

 話を戻そう。農耕民族が狩猟民族より上位に立てたのは国家というものを築き始めたからだ。そしてその社会では狩猟といった実力主義能力主義は排除され、多くの無能でも労働力として使う事ができ、なおかつ――これが最大のポイントだが「血の穢れ」から解き放たれる事ができる。「穢れ(ケガレ)」については専門家じゃないからうまく説明できないが、生き物を殺す事によって生じる罪みたいなものとしか言いようが無い。例えば、自殺者の出た部屋で理論上は掃除をしたり、壁の張替えをすれば血の痕も消えるわ除菌もしっかりされているはずだが、それでもその部屋には「何かよくないもの」がついているような気がしないだろうか?このような精神的に嫌なものを「ケガレ」と考えてもらっていい。そして狩猟民族は自らの手で生物を狩る以上このケガレから逃れる事ができない。ケガレから逃れられる農耕民族から見たら穢れている民族に見えるわけだ。

 そう。農耕民族・狩猟民族という分類には「ケガレ意識からくる農耕民族側の狩猟民族への差別意識」が根底にあるのだ。つまりこの分類を用いている人間は無意識のうちに「我々はキレイな農耕民族で、アイツらは血の穢れにまみれた野蛮な狩猟民族なのだ」という身勝手な価値観がある。あらかじめ言っておくが、歴史上地球を支配し、大量の命を奪ってきたのは農耕民族の可能性があり、狩猟民族のせいとは限らない。自然を自分の都合のよいように切り開いてきた民族と自然の中で自分の居場所を作ってきた民族。他人を殺して土地を奪う事で食料がいくらでも増える民族と他人を殺しても鳥も魚も増えない民族。貧富や身分の差がある民族と自分の実力が試される民族。貯蓄のために頑張る民族とその日を精一杯生きる民族。どちらが平和かなんて考えるまでもないだろう。もし本当に狩猟民族が野蛮なら考古学の世界では、縄文人の争いのあとが山ほど見つからねばならないが、実際は弥生人の争いの痕跡の方が多く発見されている。

 もちろん私はいまさら、縄文時代へ戻れと言っているのではない。ただ、農耕民族を美化した価値観は必ずしも正しいとは言えない。今、日本を脅かしているのはマサイ族じゃないだろうに。

 でも、日本人と外国人は明らかに違う。何が違うのだろう。実は日本人が強く持っている価値観それは日本人が永いこと「定住」生活を続けていた事にあったりする。

つづく