漁師たちのハレとケ

前提:農耕民族、狩猟民族という分類は正しいか? - 鈴木君の海、その中

「行きては帰りし物語」をご存知だろうか?
 有名どころではミヒャエル・エンデの「はてしない物語(別名:ネバーエンディングストーリー)」がある。主人公が非日常の中で冒険に出ることにより成長し、やがて元の日常に帰って来た時には何気ない日常が今までと違って見えるようになるといった物語だ。外国ではほとんどファンタジーで使われる手法だが、実は日本にもこれと似た物語が多い。

 まず、ドラえもん。大長編でも普段のお話でもいいが、のび太ドラえもんという不思議な存在に出会い、不思議な道具を使う事で普段と違う自分を手に入れる。しかし、最後は失敗し元の日常に戻ってくる。他にもウルトラマン。普段は人間だが、街のピンチにはヒーローに変身して事態を解決し、最後はまた元の人間に戻るとか。涼宮ハルヒこち亀麻枝准作品、芥川龍之介の河童かぐや姫(非日常側を主人公にした鏡構造)…挙げればキリがないが、とにかく、非日常へ行った後日常へ戻ってくるのがパターンだ。例えば、非日常へ行ったキャラがもう日常なんていらないわ俺はこっちで生活をするってパターンだってあるわけで。*1

 私はこの類型の中に「ハレ(非日常)」と「ケ(日常)」を繰り返してきた日本人像というものを見る。

 さて、「ハレ」と「ケ」は稲作民族のものだと考えられてきた。なぜならば柳田國男先生というその道では有名な先生がおっしゃった事だからだ。ようするにハレは今で言うクリスマスとかバレンタインデーみたいなもので、規則的な生活を送っている農耕民族が季節の変わり目にパーっとやってつまんねー日常(ケ)をリフレッシュしようという事らしい(間違った解釈だったらゴメン)。

 が、ここで疑問に思うのは稲作民族だから「ハレ」が生まれたのだとすると例えば、世界のエジプトとかローマとか中国とかにだって「ハレとケ」のある文化があっていいはずだ。似たような生活は似たような価値観を生むわけで、どれも農耕民族は太陽を崇めているではないか。

 そもそも「ハレの舞台」「ハレ着」などの単語は農耕民族と結びつくものではないような気がするのだ。農家が今日はハレの舞台だぞ!とか想像できない。たしかに晴れていれば作物にはいい影響が出るが、同じぐらい雨の恵みだって必要だ。なぜ「アメの舞台」がない。これらのハレとは明らかに特別な祭りの事であり、その祭りとは表彰式や祝賀という褒められる舞台というよりも、演奏コンサートとかここ一番のデートでの何が起こるか分からない勝負事の世界の言葉のように感じる。

 結論に入ろう。ハレの舞台、ハレ着というのは元々狩猟民族の概念だった。それがやがて農耕民族の生活に取り入れられていったのではないか。つまり、「ハレ」「ケ」は縄文人の時代には既に存在したのではないか?……と私が考えるのは縄文人弥生人は明確に線引きできる存在ではなく、実は共通の存在ではないかというのが私の考えだからだ。

 縄文人の食生活について考えよう。イノシシやシカの骨があったことからそれらを食っていたという考えが一般的だが、私は日本人の運動神経の無さを見るにそれは偶々(罠などにより)手に入った貴重品であり主食ではないだろうと考えている(実際子供やメスの肉を食うのは食糧確保の上でタブーにも関わらずそういった個体を食した痕があるのは不自然)。私の考える主食それは木の実や草、貝といったその辺で拾えるもんだ。こんな事を言うと私が縄文人をバカにしているとお思いになるだろうが、ちょっと待ってほしい。そもそもこれらの食料に共通している点がある。それは「血の穢れ」が無い食品だということだ。

 つまり、ケガレ思想はすでに縄文時代から存在した価値観なのだと考える。彼らが火を信仰したのは捌いたりせずとも煮たり焼いたり食べ物に変える事が出来るからではないか。そして魚!そう魚はケガレにまみれずに捕まえる事が出来るのだ「網によって」。

 日本の狩猟文化とは漁だったと考えている。なんとなくそう思う。古代のご馳走といったら魚だろう。天も海女もあまと読む。漁師たちのために天候を読む必要があったのではないか?待ちに待った晴れの日。そして漁師は海という非日常へ遠出したあと、ちゃんと家に戻って帰ってくる(移住ではなく定住)。海に仕掛けた地引網をあっそーれ そーれ*2と引いて魚を捕まえる。個人で競いあって捕まえるのではなく協力して捕まえるのだから個人の実力主義でもない。

ケ=野草、木の実など季節の味覚を「採取」する日
ハレ=「狩猟」という祭りのための特別な日

 狩猟民族でありながら、血のケガレを嫌った民族。ひょっとすると縄文人弥生人は同じなのではないか、それは戦後の日本人が食生活の変化で体系が変わったのと同じように。弥生人が本当に大陸人の支配者層だというのなら彼らが中華思想とも儒教とも違う「和」なんて思想をなぜ生み出せるのか?鑑真を失明させ、元を苦戦させた海を当時の大陸人は簡単に渡ってこれたとでもいうのか?しかも原住民よりも大多数になるほど精力ばつぐんだったとでもいうのだろうか?君主の名前に卑弥呼と卑しい漢字を当て、倭国とハッキリ別の国だと認識されるものだろうか?……まぁ、どうでもいい。

 重要なのは大陸かネイティブかということではない。日本人が「定住」生活を送り、基本は「採取」を基調とした生活を行っていた事。そしてハレの日では「集団で協力」し、「狩猟」を行っていたことだ。この狩猟民族は個人で獲物を求めてさまよう民族とは別の存在という事なのだ。

つづく。

*1:最近はそういう話も増えている。ONEPICEとかポニョとか。これらはズバリ「海」と「遠出」がテーマになっていながら決して家には帰らない物語である。どちらも後先考えず、底抜けに明るいヤツが主人公だな。異色であるはずのこの物語がウケているという事は日本も変わってきているという事だろうか?

*2:ここでさらにソーレはラテン語で太陽という意味なんだー!と言えばギャグに昇華できたが、自重した。