親という名の唯一神

前提:中国人はバカじゃない - 鈴木君の海、その中

 儒教の特徴を一口に言うと、「目に見えない物」は信用しないという徹底したリアリズムにある。儒教と同じく中国の三教である道教も仏教も、死後や超能力といった今風に言うならばスピリチュアルな要素を含むが、儒教にはそういった超次元の概念は無い。「人には思いやりを持って接しろ」とか「礼儀をつくせ」みたいな現実の生活に役立つ事を教義にしているのだ。ここには中国人の生き残るための知恵が込められている。だから儒教を知る事で、中国人がどのような価値観で社会を作っていったかという事が分かるのだ。

 「中国4000年の歴史」とよく聞くが最初の夏王朝は400年続いたものの伝説でしか情報がなく、所在を確認できる最古の王朝は、その次におこった殷(商)である。この殷は多数の氏族集団が連合し、王都のもとに多くの城郭都市が従属する形で成り立った国家である。王は神の祭りを行い、神意を占って農事、戦争などを決定した。……つまり中国は紀元前から農耕民族なのである。

 しかし、たった一人の王で複数の都市をまとめるのはさすがにムリがあった。はじめ殷に服属していた「周」は殷を滅ぼし、新しい王朝を築く。この周王朝もやがて首都を狙われてしまって、都を別の場所に移すんだけど、それによって勢力がおとろえ抗争の時代になってしまったんだ。「周王?誰それおいしいの?むしろ力のある俺が王だー!」みたいな。儒教の生みの親である孔子が現れたのはそういった世の中の秩序が乱れ、戦国時代がはじまろうとしている時代である。

 孔子は考えただろう。この乱世を生き残るためにはどのような思想、価値観がよいか。農耕民族にとって土地は重要である。しかし、大陸に住むという事は四方どこから敵が攻めてくるか分からない場所に暮らしているという事である。昨日まで友達だった東くんが明日には南ちゃんと一緒に自分を攻めてくるかもしれないのだ。他人は信用できない。しかし自分だけを信じ、武力に偏れば世の中はますます荒んでいく。何かないか?これだけは信頼できる関係というものは。……そうだ、それはある。それがなかったら我々はこうして生きていられないではないか。我々はその人たちがいるからここにいるのだ。そう「親」だ。

 神というのは目に見えない存在である。誰も唯一神の姿など見たことがないし、太陽神は像でしか知らない。しかし、親はどうだろうか?親はハッキリとその姿を現す。そして、親がいなければ自分は誕生していない。自分という存在の創造主、そう親とは「目に見える神」なのだ。

 農耕民族ではもともと若者より長老が重視される。例えば稲作というのは俊敏性とか勘で出来るものではなく、「この植物はこの季節に芽を出す」とか「この土地は肥料が少ない」といった知識や経験がなければちゃんとした収入を得られないからだ。そんな文化圏で親という自分よりも年上で、なおかつ信頼できる関係というものはないだろう。儒教には孝という親に対する美徳があるが、我々もよく知る親孝行とは儒教の用語なのである。

 こうして見ると合理的で美しく見える儒教だが、実は欠点がある。それは、儒教が先祖崇拝を重要視するあまり、過去思考になってしまっているということだ。

つづく。