儒教はなぜ時代遅れなのか?

前提:親という名の唯一神 - 鈴木君の海、その中

 今でこそインターネットにつなげばあらゆるサイトが目に留まり、図書館は無料で利用でき、本屋に入れば好きな本を自分で選べる。しかし、印刷技術もネットも無い古代において知識というものは限られたごく一部の人たちのものであった。ずばり長老である。だから、「年長者を敬いなさい」という儒教が発達していた中国では、そういった年長者から知識を直接いただく事が当たり前になり、農業も鉄器も学問も発達していったのである。つまり、古代の中国においてメイドインチャイナは粗悪品ではなく、最先端の実用品だったのだ。

 ここで重要なのは、儒教文化圏では基本的に「先人の知恵を借りる」事で発達してきたという事である。儒教が「目に見えないもの」を信仰しないという事は既に述べたが、それはつまり、儒教徒の持つ知識とは実生活に役立つ知識であり、「ムダ」がない。だから親や先生や先輩やとにかく自分より長く生きている方々(先人)の教えを守れば、ムダなく自分自身を賢くしていけるのである。こういった文化では「疑問」を抱く必要がほとんどなくなり、人よりも多くの教養を「身につける」事が大事になる。

 しかし、この価値観は現代においてはほとんど無意味である。例えば学校の教室で先生が「俺たちの子供の頃はウサギ跳びをよくやった。これを続ける事で強い精神力と忍耐力を身につけることができたんだ!さぁ、お前らもやってみろ!」と言っても、生徒に「ウサギ跳びは体に悪いんですが。これは医学的にも実証されていますよ」と言われたらおしまいなのだ。これは、生徒が礼儀知らずだから起こるのではない。儒教というものが、「周りに確かな情報というものがなく、信頼できるのが親だけ」という価値観に基づいており、現代のように自分が望めばいくらでも情報が手に入る世の中では通用しないのだ。仮に通用させたいのなら情報規制が必要だ。

 中国人の賢さというのはこういった儒教の影響がある事が一つだろう。いちいち「1+1」はなんで「2」になるの?「11」じゃダメなの?みたいな後輩が勝手に見つけた疑問なんてものは学力テストの世界では無意味だ。ちゃんと「1+1=2」と先人が見つけたものなんだから、そういうもんなんだと理解して次に進むべきだ!となっていく。

 儒教は先人が誰も挑んでいない分野に対して立ち向かえない。生産業とはクリエイティブである。そしてクリエイティブの世界には明確な答えは無い。だから、メイドインチャイナは長年に渡って苦しんできたのだというのが私の考えだ。同じパクリ大国でも日本と中国では思想が違うのだから、出来上がるものは違ってくる。

つづく