毛、食、笥。

前提:死者はケガレているか? - 鈴木君の海、その中

 ケガレについて理解を深めるためには、ハレとケについて考えなければならない。質素なケの日と華やかなハレの日。この異質な習慣の同居には二つの民族の同居(和)を感じさせる。私は縄文人漁師説を挙げたが、そこでは「狩猟の祭りを楽しむハレの日」と「採取を行う日常のケの日」に分けたと延べた。さて、では大陸から稲作が伝わった後の弥生人たちはハレの日を捨ててしまったのか?答えはノーだ。やはり狩猟を楽しむハレの日はあった。
魏志倭人伝 - Wikipedia

また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。

魏志倭人伝卑弥呼のいた弥生時代の話である。その時代にも漁はあったわけで、突然食生活が変わるわけじゃない。変わったのは「ケ」の生活の方だ。これまで採取という「自然の中でやりくりする」という生活から解き放たれ、「食物を自分で作る」という文化が生まれたのだ。

 おそらく縄文人単一民族ではなく、狩猟民族と採取民族のハイブリッドだったのだろう。彼らはお互いの文化を認め、神事の祭りの時だけ狩猟をしましょう。それ以外は自然の恵みに頼りましょう。といった生活をしていた。猟師は猟しかやらない。農家は農作物以外食ってはならない。……みたいな堅苦しい生活ではなく、どっちもやろうよ!という文化なのだ。これによって一つの国民の中に「祭りの時はみんなで協力し獲物を捕らえるギャンブル的なハレの習慣」と「山の恵み(後の田の作物)といった日常の積み重ねが生み出す堅実なケの習慣」が同居したのだ。

 このような「ハレの日=狩猟祭」と捉えているのは私ぐらいだろうから説得力なくなってしまうが、ハレの日は死と隣り合わせだ。イノシシ狙って逆に自分が致命傷を受けたり、海に潜ったまま帰らぬ人になってしまう可能性だってある。しかし「ハレの日=死と隣り合わせ=ケガレのイメージ」なんて図式はない。我々はハレの日は清清しいイメージすら持っている。

 では「ケ」の日はどうか。堅実なケの日にケガレはあるか。私は「ある」と思う。「ケガレる」は「ケ+枯れる」。単純に考えれば「食(け)+枯れる」だ。ハレの日は大きな獲物やたくさんの獲物を取れる可能性があるので、食が枯れる事はない。一方堅実なはずのケの生活では不作で米があまり取れなかったりする。毛は稲作的には一本一本の稲の事だろうが、この稲が全部枯れてしまったらおそろしいだろう。また採取時代には毛は野草を意味していたはずだ。山の恵みが底をついてしまう事もおそろしかったはずだ。

 なるほど「食が尽きる=食枯れる=栄養失調で死」なんだね。と言いたくなるが、私はさらにここで異論を挟みこむ。「笥」って何と読むかご存知だろうか。答えは「け」だ。そしてこれは「古代日本において食べ物を載せる食器」を表す。井沢元彦さんが「ケガレが残る」と言った茶碗と同じものだ。食が枯れて死が訪れるのは理解できる、だが食器が枯れて死が訪れるとはどういう事だろう。食べ物に関する事だから偶々「ケ」と呼ぶという意見もあるだろう、だがそもそも「ハレとケの対比」で考えるならば、ケの日を「食の日」なんて考えるのはイメージと違わないか?ハレの日だって豪華な食べ物はあるだろう。では「ハレの日」との対比で生まれる「ケの日」のイメージは何か?それは「堅実性」「持続性」のような「生きるために必要な事である」。ハレの日が「楽しさ」「華やかさ」といった娯楽的なイメージにあるのと対象性を考えれば自然にそうなる。

 すると、ここに新たなイメージが生まれる。それは「ケ」とは「生きるための力」を連想する言葉であり、「ケガレる」とはそのエネルギーが枯れる事を意味する。そしてその事を補強するために我々はある言葉を思い出さなければならない。それは「怪我」だ。

つづく