不思議なふしぎなぼっち飯

前提:古代のリサイクル思想 - 鈴木君の海、その中

 「和の思想」について理解を深めるために、ぼっち飯について考えよう。

ランチメイト症候群 - Wikipedia
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 大雑把に要約すれば昼休みに一人でご飯を食べる事がぼっち飯である。私もぼっち飯経験者だが、世間一般と私のぼっち飯では認識が違う。それは上記のWikipediaに書かれている

主な症状は、一人で食事することへの恐れと、食事を一人でするような自分は人間として価値がないのではないかという不安である。この症状の当事者は次のように考えがちである。「学校や職場で一人で食事をすることはその人には友人がいないということだ。友人がいないのは魅力がないからだ。だから、一人で食事すれば、周囲は自分を魅力のない、価値のない人間と思うだろう」。こうした考え方が主な症状である恐れと不安を誘発する。

のような事はほとんど思った事がない。高校時代は教室の前方の席*1で堂々と弁当広げて食ってたし、今現在も一人で飯を食っていても別に気にしない。あえていうならば大学のときに通学用の車の中でパンを食う毎日だったが、それだって本当は講義室でノートパソコン片手に食うことも出来たが、掃除のおばちゃんに迷惑がかかる上に禁止されていたからパンくずが落ちても平気な場所として車を選択しただけである。あと、日本のトイレは別にきれいだとは思わないし、ウ●コする人の邪魔になったら嫌なので便所飯もした事ないです。

 そもそも食堂とは食事をするために行く場所であって、人数指定なんてされていない。一人で食うことの何が問題なのか分からないし、恥ずかしがるのはもっと理解できない。さらに言えば一人で食うやつを嘲笑うようなやつがいるのも謎だ。この事に関して例えばネット上には「一人で食っているやつがいると席がムダだ」なんて意見もあるが、一言「お隣よろしいでしょうか?」とか「お隣失礼します」と言って座ればいい。食堂は公共の場所なのだからそれで拒否するような頭おかしいヤツなんてほとんどいないだろう。仮にそんな一言も言えないのだとしたらそいつこそコミュニケーション力不足だと言わざるをえない。というか恥ずかしがるやつも嘲笑うやつも必死に仲間探すヤツも結局はみんな等しくコミュニケーション力が無いのだ。*2

 しかし、この「既に人が座っているテーブルには座りずらい」というのは興味深い現象である。これは私が以前述べた自殺者の部屋には何かいるような気がして住みづらいという現象に似ているのではないか。――しかしもしもこれがケガレによってもたらされるものならば、他人が一度でも座ったテーブルに座る事にためらうはずではないか。だが、おそらくほとんどの日本人はそこから人がいなくなればみんなで座る事が出来るのではないだろうか。*3つまり潔癖だから座れないのではなく、そこに「何かがいるから」座れないのだ。

 和の思想とは「みんなが手を取り合って輪を作っている和の状態」を理想とする考えだ。だから「はみ出し者」であるぼっちは輪の中に入れるべき存在である。しかし、この和の思想には大きな弱点があって、それは人間の「好き嫌い」を全く考慮していないという事だ。人間誰しも好き嫌いがあるので当然あいつだけは絶対に仲間の輪に入れたくないという感情の衝突が起きる。そんな状態ではみ出し者を入れてしまうとかえって「不和」が起きてしまう。だから、逆説的に「はみ出し者ははみ出し者のまま」の状態で今現在の仲間の輪を守ることで和を作り出すのだ。*4和の輪とは決してお遊戯会のような楽しいだけのものではない、彼女や家族のような「身を挺してでも守りたいディープな関係」なのだ。だからぼっちを加えるという事はその人の空いている恋人役や親役や友達役を全て引き受ける事にイコールなのだ。

 普通に考えれば、ぼっちと同じテーブルで食事をしたところで何が変わるわけでもないだろう。だが、和の思想の持ち主たちの社会では輪に加えた時点でそれらは同じ共同体の人間という事になり、勝手に恋人や家族と同程度の存在だと思い込んでしまうのだ。――とんだ妄想だ。つまりぼっち差別とは「はみ出しものは加える事が大事、でも加えたくないから攻撃の意思を表す」という見方をすれば理解できるのだ。最初から仲間の輪に加えるつもりがないのなら、同じ席に座っても何も問題も無いからだ。食事が目的なのだから基本的には無視したっていい。ところが和の思想の持ち主たちにはぼっちテーブルには既にぼっちの恋人や友達や両親が座っていて自分がそれらと融合してしまうというおかしな妄想が出来上がっているのだ。

 こういうおかしな妄想は現代人が作り上げたものではなく、古代から受け継がれる思想によって作られたものだ。当然、古代にも和の衝突、つまり「不和」があったのだろうと推察できる。それは当然だ。戦後、単一民族国家として認識されたから分からないかもしれないが、日本は元々、狩猟、採取、稲作といった多民族によって作られた「倭」という連合国家なのだから。当然そこには本来相容れない複数の思想があり、それが最終的に一つにまとまっていったのだ。古代の日本が多民族国家であった可能性――それは日本神話から見えてくるのだ。

つづく

*1:(本当は後ろの方がよかったがどういうわけか不人気な前に追いやられる)

*2:コミュニケーション力といえば小学校の頃、担任教師から「あなたなんでいつも一人で遊んでいるの?おかしいわよ?そんなんじゃこれから先生きていけないわよ」という差別や脅迫ともとれる人格攻撃を受けたましたが、あれから何年も経って変わらず一人でいる事に抵抗のない私は、日常生活を送る上で何の不便もなく生活していけているわけですが。どうしてなんでしょうかねぇ。むしろ友達と一緒だと滅茶苦茶攻撃的なのに一人だととたんに無口になる人がたくさんいましたが、彼らは今も元気なんでしょうかね。表面的にいつも一緒で仲良く見える二人の一方が「あいつうざいんだよねー」という悪口を言っている現場とかたくさん見たんですが。特定の友達としか付き合わない人は、不特定の相手ととりあえずその場限りでも付き合える私よりコミュ力あったんでしょうか?誰か教えて

*3:これも一種のミソギ。生身の人間を放り出せばよい。

*4:いつも以上に電波でスマソ。