ゲーム脳の逆襲

 かつてマスコミで「ゲーム脳」が騒がれた時、多くのゲームファンはゲーム脳なんて皆無さと言い放った。確かに確証も何もない。科学的にも証明されたことはないから。これで何も問題ない。

 しかし、本当にそれでいいのだろうか?たとえば、例えばの話である。ちまたで狂牛病がささやかれている。お客さんはそれでも関係ないさと言ってくれている。食べる側はそれでもいい。しかし我々作る側はそれでいいのか?こちらを信じている相手に対して、病気なんてそもそもないという態度でいいのだろうか?作る人間としては、そのゲームが病気に侵されていないか徹底する義務があると思う。それでこそゲームクリエイターは胸を張れる。

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ゲーム業界にも後ろめたさがある?
――これほどいかがわしい『ゲーム脳の恐怖』に対して、ゲーム業界が反論しないのが不思議なんですよね。
斎藤 うーん、ひょっとしたらゲーム業界も、何か後ろめたさを感じているんではないかなという気がちょっとするんですよね。もっと堂々と反論していいんだけども、ゲーム業界もそこらへんに関しては、実は内心、じくじたるものがあるんじゃないかっていう気がするんですよね。あこぎなことをしているという意識がどこかにあるんじゃないんですか、ゲーム業界側にも。

 上記のサイトでは、ゲーム業界が「ゲーム脳」に関してだんまりを決め込んでいる事を指摘している。

 何故ゲーム業界は反論しないのか?考えられるのは、業界人がゲーム脳の特徴を併せ持っていて、「ゲーム脳が実在する!」と思い込んでいるからだろう。そして、そんなゲーム脳である自分たちが、同じく「ゲーム脳であるユーザー」に商品を売ってる……そういう認識が業界人をチキンにさせているのではないだろうか?
(もちろん、宮本茂のようにちゃんと向き合う姿勢を持った人間もいるにはいるが……)

 これはアホである。必要以上に自分たちのあり方を否定し、(しかもその認識には多くの誤解があり)揚句の果てには本来自分たちにとって望ましくない相手の言い分をそのまま受け入れる。ゲーム業界人はこういった自虐史観の上で生きているのだ。

 つまり、業界を覆う影とその正体に目を向けなければ、ゲームを作る事も遊ぶ事も何の意味のない。ただ快楽を追うだけの虚無な行為だ。我々、ゲームづけの人間は本当に快楽を追うだけのサルなのか?このカテゴリではゲームが我々にどのような影響を与えてきたのか。その謎について迫っていきたい。

 そこには我々を本来生きるべき現実から遠ざけさせる存在、そして一方でそれらと戦った優秀なクリエイター達の存在に気付くだろう。