擬人化はギリシャ文化である

 日本神話とギリシャ神話は共に多神教で人間じみた神が登場する事から比較される事が多い。ただ、それは共通点を見つけているだけで両者の根底は全く違う。例えば、日本神話において月の神である「ツクヨミ」はなぜ活躍しないのか。――結論から言ってしまえば、日本神話の神は擬人化によって生まれた神ではないからだ。その事を説明するためにギリシャについて語ろう。

 島国でもあり、大陸の一部でもあるギリシャ。山がちで農作に適さない土地に住んでいた彼らは、作物が限られていたため、最初からよその国に目が向いていた。植民地を作ったり、貿易をしたりして生計を立てていたわけである。植民地ってキーワードから分かるとおり、当時のギリシャ人は好戦的で戦争で土地を手に入れていたりする。ギリシャ人はポリス(城山)っていう貴族中心の独立した都市国家を作っていたんだけど、そのポリス同士でも争いが起こったりする。

 ただ、そんな彼らが戦争をピタっと止める行事があった。それが「オリンピック」である。オリンピックは神に捧げる祭りであり、その最中は争いをしてはならないわけだ。古代ギリシャでは共通した言語・神話を持っている仲間を「ヘレネス」と呼び、持っていない異民族を「バルバロイ(何言っているか分からないやつ)」として区別した。このバルバロイは後のバーバリアン(野蛮人)の語源らしい。

 バルバロイである我々からすると、ギリシャ神話は主神であるゼウスが浮気しまくるお話にしか見えず、そんな戦争を止めるほどの力があるのか理解しづらい部分もある。そこで、ギリシャ神話のエコーのエピソードからギリシャ人の価値観を見出していこう。

ナルキッソス - Wikipedia

森の妖精(ニュンペー)のひとりエーコーが彼に恋をしたが、エーコーはゼウスがヘーラーの監視から逃れるのを歌とおしゃべり(別説ではおせじと噂)で助けたためにヘーラーの怒りをかい、自分では口がきけず、他人の言葉を繰り返すことのみを許されていた。エーコーはナルキッソスの言葉を繰り返す以外、何もできなかったので、ナルキッソスは「退屈だ」としてエーコーを見捨てた。エーコーは悲しみのあまり姿を失い、ただ声だけが残って木霊になった。

 森の妖精エコーは憧れの少年ナルキッソスに話しかけたくても口が聞けないんだよね……という話。かなしいね。――ただ、森の妖精だとか、オウム返ししか話せないといった非現実的な設定が多いので、これまでこのブログで述べてきたユダヤ教アブラハムモーセの体験)とか超リアリズムな儒教と比べると「フィクションじゃん、これ」と思ってしまうかもしれない。実はその感想はある意味では正しく、ギリシャ神話とは「詩人の作った創作」であり、王や賢者が作った史実としての読み物ではない。
 
ギリシア神話 - Wikipedia

しかし当時の人々のなかで、特に、どのような神が天に、そして大地や森に存在するかを語り広めたのは吟遊詩人たちであり、詩人は姿の見えない神々に関する真実の知識を人間に解き明かす存在であった。神の霊が詩人の心に宿り、不死なる神々の世界の真実を伝えてくれるのであった。

 そもそもギリシャは文献で確認できる頃には既に「王がいない」。当時のギリシャには貴族、平民、奴隷の階級が存在し、あえていうならば貴族が権力を持っていたが、貴族は「富を持った平民」であり、神の子である王ではない。一人一人が知識階級なので、特別な血筋という意味での神に価値がないのだ。ではギリシャ神話の神々とは何か?それは「擬人化された自然現象」である。

 先のエコーのお話は「木霊」のお話であるが、これはエコーという実在の人物がいて、彼女から話を聞いて後世に伝わったものではない。「木霊」という自然現象がまず先にあって、その自然現象を説明するのにこの物語が作られたと考えた方が自然である。

民「ねぇ、なんで山では声が響いて帰ってくるの?
詩人「あれはね、森の妖精が返してくるんだよ
民「なぜその子はこちらの言葉を返してくるの?
詩人「それはね、こんな物語があったからだよ

 星座もそう。我々は「蛇使い座」とか言われても決してそうは見えない。だが、空を眺めているうちに星の位置を覚え、その星を一まとめにして覚え、それに物語を与えたのならば、なぜ星座には物語がついているのかも分かる。あれは物語や神話があって、星座を見つけていったのではなく、まず星の並びという自然現象があって、それに物語を当てはめていったのだ。

 この、「結果からそのルーツを探していく」という帰納法のような考え方こそギリシャ文明の特徴である。一方でユダヤ教の聖書は明らかに演繹法で物事を順番に記していっており、儒教演繹法で考えが付け足されている。演繹法の神話は一族のご先祖様の言ったことを「信じる」事が重要な事なのに対して、帰納法で生まれた神話は世の中の本質を「考える」事が重要になっていく。この考え方があったからこそ、古代ギリシャでは現象から本質を考える「フィロソフィー(知の愛)」つまり「哲学」が生まれる事になる。そしてこれが「科学の基礎」となり、西洋の発展につながっていく。

 つまり、ギリシャ神話を「美男美女が出まくるエロカッコイイ物語」と認識すると安っぽい神話になってしまうが、これを「フィロソフィーによって生まれた物事の本質を説明した理論書」と理解すれば、なぜこの物語が神格を得ていたのかも分かる。ギリシャ神話の神とは「ゼウス(天の擬人化)」「ポセイドン(海の擬人化)「ハデス(地下の底の擬人化)」など知識を擬人化する事によって生まれた「物事の本質」を意味しているのであり、オリンピックで彼らが戦争を止めるほどの神だったのも、作物を作ったり災いを生み出す大自然を操る「この世の真理」だったからだ。

 さて、では日本神話はどうか?実は日本神話で擬人化された神は驚くほど少ない。イナザギとイザナミは八島(日本列島の事)をお産みになられたが、この八島が自ら人格を持ち人間や他の神と関わる事はない。あくまでも島として存在するだけである。これはご神体に近い考え方で、例えば「あの山はご神体だから傷つけてはならない」と山自体を神として見る考え方だ。山を人に見立ててとか山に管理人や支配者がいて――という見方ではない。イザナミが死ぬ原因となった火の神も産まれた後、喋る間もなく殺されているので、これも人格があったのかさえ不明である。

 日本神話で擬人化によって生まれたであろう神は「天照大御神(アマテラス)」のみである。*1アマテラスは色々あって引きこもってしまい、これにより太陽が消え、暗闇が訪れ民が混乱してしまう。これは「日食」のメタファーなわけで日本に全く擬人化文化が無かったわけではない。だが、そもそもアマテラスを主神として崇めた朝廷の人間は太陽を崇める稲作民族である。日本において稲作民族は大陸との貿易によって発展していった弥生人であり、いわば「親大陸」思想の持ち主である。大陸はもちろん中国文明が栄華を持っていたが、その大陸のさらに西にはギリシャの思想がある。紀元前にあったギリシャ的な思想がめぐりめぐって中国へ行き、その思想の影響を貿易をしていた弥生人が受けたとしても不自然ではない。一言で言えばパクリである可能性が高い。

 というよりそもそも日本神話は帰納法で説明できない点が多く、なんでそんな事しているの?という疑問がつきない。特に暴れん坊のスサノオとか説明がつかない。だが、これが演繹法で作られた神話ならば説明がつく、理屈で作られたのではなく、そのように行動していったのだから、そのまま記したのだ。そう、実は日本神話はギリシャ神話的というより、むしろユダヤ人や中国人のように、「ありのまま今起こった事を話すぜ!」として記された物、つまり「史実として描かれた物」なのである。そのように考えれば「なぜ日本神話には古事記日本書紀、二つの文献が存在するのか?」という疑問にも答えられるのだ。

つづく。

*1:探せばもっといるかもしれないが