仏教は楽な宗教ではない

前提:哲学者ブッダ - 鈴木君の海、その中

 諸行無常を理解すれば、自己犠牲も理解できるようになる。

 シッダールタの死後、彼はやがて神格化され、これだけの教えを残せる彼は前世もすごかったに違いないと、シッダールタの前世ではないか?という説話が各地から集められた。このブッダの前世の話は「ジャータカ」と呼ばれる。ジャータカの中でよく引用されるのが「捨身(しゃしん)」である。

月の兎 - Wikipedia

猿、狐、兎の3匹が、山の中で力尽きて倒れているみすぼらしい老人に出逢った。3匹は老人を助けようと考えた。猿は木の実を集め、狐は川から魚を捕り、それぞれ老人に食料として与えた。しかし兎だけは、どんなに苦労しても何も採ってくることができなかった。自分の非力さを嘆いた兎は、何とか老人を助けたいと考えた挙句、猿と狐に頼んで火を焚いてもらい、自らの身を食料として捧げるべく、火の中へ飛び込んだ。その姿を見た老人は、帝釈天としての正体を現し、兎の捨て身の慈悲行を後世まで伝えるため、兎を月へと昇らせた。月に見える兎の姿の周囲に煙状の影が見えるのは、兎が自らの身を焼いた際の煙だという。

 古代インドでは人は死ぬと煙になって月へ行くが、これはウサギも同じらしい。この他にも腹を空かせた虎に対し、自らの身を与えた王子の話もある。

 なぜ、このようなウサギや王子がブッダの前世とされるのかというとこれらの自己犠牲は仏教の根本である諸行無常と結びついているからである。仏教は何よりも魂の救済を優先している。その結果、いつかなくなるものに対して執着する「煩悩」を捨てる事が大事なのだという考えを興した。では、我々が持っているこの「肉体」は何か?肉体はいつか朽ちて土になるもの、つまり肉体にこだわってはいけない。目の前に苦しむ人がいれば差し出す事こそ仏教の理想である涅槃なのだ。この価値観は「生と死は等価値なんだ」というインド人にとっては浮かんだとしても不思議ではない発想である。*1

 そしてこれら前世のブッダは、ここまでやってもまた生まれ変わったのだからこれだけでは修行が足りなかったことになる。その後も何度もやってくる苦しみを乗り越え悟りを開いたのだ。現代日本ではゆるゆるで生臭坊主しかいない仏教だが、元々は俗世と関係を断ち切った達観した世界観があって初めて実行できる事であって誰にでもできる事ではない。自己犠牲も涅槃も今の生活を捨てるわけにはいかない一般大衆には不可能なのだ。そこで、救済を求める人のための新しい信仰が生まれる事になる。それこそが日本に伝わった仏教、「大乗仏教」である。

つづく

*1:勘違いしてほしくないのはこれは自殺ではないという事だ。自殺は誰のためでもなく自分のための行動であり、原因も人間関係を初めとする煩悩に囚われた結果起こった事であり、これでは無我の境地に至ったとは言えず、再び人間関係に苦しみ自殺する人生を歩む事になるのでダメ絶対!