8時間目「赤く大地染め上げる」

 みんなはロムカセットって知ってるか?今はゲームソフトの提供スタイルとしてディスクロムがいっぱん的だからなじみがうすいだろうけど、先生ぐらいの世代はみんなこのカセットをフーフーしてホコリを取った事があるくらいなつかしいものだ。今だったらDSのソフトの大きいバージョンと言ったら伝わるだろうか?

 このロムカセットは任天堂が家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」で採用してから、以後すえ置き機ではスーパーファミコンニンテンドー64に引きつがれるんだけど、その構造上の問題から値段が張ってしまい後期になると1万円をこえるソフトが大量に出てきたんだな。ネット上ではこの事を指してボッタクリだの最悪の時代だの散々な言われ方をしてしまっているみたいだな。でも、当時を生きた先生から言わせてもらうと全然最悪な時代じゃない。なぜならばネット世代のほとんどは当時の家庭用ゲームのライバルがだれなのかを知らないからだ。ファミコンのライバルは「ゲームセンターのゲーム」つまり「アーケードゲーム」なんだ。

 みんなも「スーパーマリオ」って知っているだろ?でもこの「マリオ」はファミコンで生まれたキャラクターじゃない。元々はアーケードゲームのキャラクターなんだ。

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とはいえ、NOAは設立してからしばらく業績が低迷していたから、 荒川社長は、サンプルテストで好評だった業務用ゲーム機「レーダースコープ」を大量に売って 事業拡大を促す計画を目論む。 そして資金のほとんどをつぎ込み、「レーダースコープ」3千台を注文。

しかしその「レーダースコープ」、4ヶ月の船便輸送の間に完全に飽きられてしまっており、 全然捌けずに2千台も売れ残ってしまう。 在庫処理に困った荒川社長は、ゲーム機本体はそのままで、ロム基盤だけを替えて売ろうと考える。
そこで本社に、「新しいゲームを開発してその基盤だけ送って欲しい」と要望。

(中略)

NOAから新たなロム開発の要請を受けた本社任天堂。しかし開発陣は皆他の仕事に追われており 技術者にもプログラマーにもそんな余裕はなかった。

横井の「デザイナーに作らせたらどうか」という提案により、 (金沢工業大学から)入社4年目のデザイナー、宮本茂が仕様書を任されることになる。

最初の構想はゲーム&ウォッチ(次章で解説)のポパイゲーム。 横井が「工事現場、下にポパイ、上にブルート」と原型を、 「樽が上から転がってきて避ける」と宮本がアイディア、 更に「樽を飛び越せるようにしろ」と横井がアレンジ、 転がる樽をボタンでジャンプし飛び越すルールに。

更にゲームにストーリー性(ラブロマンス?)を加味した −主人公はお姫様を助けるために困難を越えていく−、そして ストーリーとルールが一目で分かるようなデモシーンも作った。

後に「ポパイ」の版権がお流れになると、 宮本が−限られたドット絵で特徴を出すため− 「作業服に帽子、団子っ鼻にヒゲのキャラクター」を創る。
開発者達に「おっさん」と呼ばれたこのキャラクター、 宮本の書いた企画書のイラストには「Mr.Videogame」と命名された。
(後にNOAの社員によって「マリオ」と名付けられる)

(中略)

半年後、完成したゲームのタイトルは、「ホンキーコング」「クレイジーコング」 「ドンキーコング」(まぬけなゴリラ)の中から、任天堂の社員が選び、 その題名で基盤に焼き付けた。そしてアメリカは西海岸へと船便で送られる。

1981年、アメリカで「ドンキーコング」発売。

プレイヤーは、大工のマリオを動かし、恋人を「まぬけなゴリラ」から救出する。 プレイヤーは様々な妨害を越えて、美女の元へ急ぐ。

ラブストーリー性、ルールが一目で分かる事、そして面白い事。 殺伐とした戦争ものが多い中でこのゲームは異彩を放った。

このゲームは徐々に人気を博し、やがて大ヒットを記録する。 2000台の「ドンキーコング」は見る見る内に完売となった。 荒川はこれはいけると 更に数千台を追加注文。それも完売、また追加・・・最終的に6万台を売ることになった。

 これが今回の引用した動画にあるゲーム「ドンキーコング」誕生エピソードだ。このドンキーコングでマリオはデビューしたんだ。だからマリオがファミコンに出ることは「ゲームセンターで人気のあのおっさんがついにキミの家にやってくる!」みたいなイメージだったんだろう。

 ここでみんなに注目してほしいのは「ドンキーコング」の作り方だ。ゲームセンターでは筐体と呼ばれるコンピュータの入った機体を使って遊ぶ。そしてこの筐体はあらかじめ作った側が自由に音だとか映像だとかの機能をいじれるのがパソコンとのちがいである事もみんなには教えたよな。でも、今回は自由に作れない状きょうからスタートしている。「レーダースコープ」というゲームを大量に作ってしまったから、レーダースコープのための「機能」がまず先にあって、中身であるデータを記録する「ロムキバン」だけをかえてゲームを作ろうとしたんだよな。「ハードウェア」があって、その上で動く「ソフトウェア」を作って提供する。これはパソコンのゲームと全く同じ作り方だ。これが「ファミリーコンピュータ」を作るためのヒントになったんだ。

 そのころアメリカでは「アタリVCS」というゲーム機がヒットしていた。これは「アタリ」というアメリカの大手ゲーム会社が出した「カセット式」のゲーム機で、カセットをかえれば新しいゲームが遊べるというものだった。発売当初はそれほど売れていなかったんだけど、数年後に「スペースインベーダー」や「パックマン」等のヒットゲームを移植したとたん、ものすごくたくさん売れたんだ。任天堂の社長である山内博さんはこのヒットを見て「いいソフトさえあればゲーム機は売れる」という可能性を見出すんだな。

 当時の日本の家庭用ゲーム市場はエポックやバンダイなど大手が次々と家庭用ゲーム機を出し始めていて乱立状態だったんだ。任天堂ゲーム&ウォッチこそヒットしていたが、家庭用ゲームメーカーとしては後発。その中で、他のゲーム機とはちがう自分達だけが作れるものを作ろうと差別化を図ったんだ。まず「親が子供に買いあたえやすい値段」。次に「余分な機能を取り除いてし、ゲーム機能に特化させる」。最後に「常に新しいソフトをユーザーに届ける」。これを目標にしてファミリーコンピュータは作られた。

社長が訊く「スーパーマリオ25周年」

岩田
それはつまり、当時は大きなアーケード基板にたくさんのICを載せることでようやく動いていた業務用の『ドンキーコング』を、「小さなワンチップにできますか?」とおっしゃったんですね。

上村
そうです。そのとき、「こんな回路をつくることができるか」ではなく、「この『ドンキーコング』ができるか」と言ったことがいま思い出しても、大正解だったと思うんです。というのも、リコーさんの技術者の人たちは新しいテクノロジーへのチャレンジに飢えていたようなんですが、それ以上にもっと大きかったことは、自分たちが頑張れば、『ドンキーコング』を家に持って帰れるようになるぞと(笑)。

岩田
動機に火がついたわけですね(笑)。

上村
ええ。彼らはゲーマーでしたから、そのように考えてくれたのが幸運でした。

岩田
でも、どうしてそう言ったんですか?

上村
あの当時は、ハッキリ言って、仕様書に書くことができないようなレベルだったんです。そこで、『ドンキーコング』がどこまで再現できるのか、まず現物をつくってみようと。

岩田
たしかに実際にものをつくってみれば、新しい機械にどんなことができて、どんな表現ができるのかがすごくわかりやすくなります。

上村
アーケードゲームをそのまま家庭用に移植することは当時は不可能なことでしたが、幸いなことにアーケードゲームの回路設計は任天堂社内でやっていましたので・・・。

岩田
回路の中身を熟知していたんですね。

上村
そうです。それと同時に、宮本さんのようなソフト開発者がいましたので、「最低でも、これは表現できるようにしてほしい」みたいに、本来の魅力を残しつつ、みんなで相談しながらある程度単純化して、最大限の能力を引き出すことができたんです。

岩田
ドンキーコング』という商品が社内にあったことの強み、そして、それをつくったソフト開発者が社内にいたという強み、さらに、ゲームセンター用の基板を、自分たちでつくっていたハード技術者も社内にいたという強みと、合計3つの強みが当時の任天堂にはあったということですね。

 ドンキーコングを家で遊べるようにする。それはつまり家の中をゲームセンター化させるという事だ。これにどんないい事があるのか知りたかったら、キミの家にあるゲーム機やパソコンやケータイでゲームを遊ばずに、ゲームセンターだけでゲームを遊んでみるといい。おそらくすぐに不便である事に気づくはずだ。

 まずアーケードゲームは「場所にしばられる」。遊ぶためには身近にある筐体のあるお店を探してそこへ行かなければならない。仮に店を見つけ出せたとしても他に先客がいたら遊べない。さらに子供には門限があるだろうし、社会人なら営業時間がある。つまり「時間にもしばられる」。仮に休日に言ったとしても、ゲームセンターの都合上、お客の回転率を上げるために1プレイがすぐに終わるようにゲームが作られている。ゲーセンで1プレイ1コイン(仮に100円)だったとして、1プレイ5分だと計算しても1時間ですでに1200円も消費する。調子に乗って100回プレイしたら1万円をこえてしまうわけで、面白いゲームほど高い出費が出てしまう。つまり、「お金にもしばられる」わけだ。

 場所も気にせず堂々と筐体の前に居座り続け、時間も気にせず遊び続け、お金の不安がない。そんな事ができるのは不良だけだ。

「ゲームセンターは不良のたまり場」だった頃 - いつか電池がきれるまで

当時は、「ゲームセンターは不良のたまり場」と呼ばれていて、遊んでいると、中学生にカツアゲされたり、補導員に「きみ、どこの小学校?」と声をかけられ、「指導」されたりしていた。

というのを書いたら、読んだ人から、「そんなことあるわけない」「お前の脳内だろ」「それ、『1984』の世界線?」などと少なからず疑念を呈されてしまったのです。

いや、これ、まぎれもない事実だから。
1980年代前半は「小学生はインベーダー(当時のゲーム機は、みんな『インベーダー』よばわりされていました)禁止!」「ゲームセンターのような盛り場には近づかないように」などと、夏休みの前などには、必ず注意されていたものです。

 先生はあんまりゲームセンターに居座った経験が無いからゲームセンターが不良のたまり場だったのかどうかは知らない。だけど世間からは不良のたまり場であると言われていた事だけは覚えている。だから当時の親からしたらそんな危険な(その上お金もからむ)場所に子供が行くくらいならば、管理できる自分の家で遊んでもらいたいと思ったはずだ。

 ファミコンソフトの値段についても、その当時の価値観を知らないと理解できない。当時はネットにしてもケータイにしても定額料金じゃなかった。使うほど料金がかさむ。ゲームセンターもまた遊べば遊ぶほどお金がかかる。つまりファミコンのような先行投資型のビジネスはむしろ今のケータイやネットがやっている定額サービスを「先に実行」していたユーザーフレンドリーな仕組みだったんだ。*1

 ファミコンはゲームを遊ぶ子供や買いあたえる親の事まで考えた消費者の目線で作られたものなんだ。つまり、「家庭」ありき。一見するとファミコンとパソコンと名前が似ているから同じもののように見える。しかし、実際はパソコンが持っているようなキーボード入力機能はない。ドンキーコングが動くように作ったものであり、さらにその後に任天堂が出した対戦型ゲームの「マリオブラザーズ」が動作するようにコントローラーも2つ標準でついてくる。つまり、「家庭に置くゲーセンコンピュータ」の事をファミコンと名づけたんだ。これは「個人で使う研究用コンピュータ」であるパソコンとはちがうものなんだ。

 パソコンでは大型コンピュータがそうであったように世の中にあるものをコンピュータ上で表現する「シミュレーションゲーム」が主流だったんだけど、ファミコンではそれとは異なるジャンルのゲームがモーレツな勢いで発展していく事になるわけだ。……ん?もう時間か。おーし、今日はここまで!解散!

*1:高い高いと言われるスーパーファミコンにしたって、当時はまだ「ストリートファイター2」というアーケードゲームが全盛だった時代だ。家庭用ゲームのライバルとしてアーケードゲームがあったはずなんだ。それに中古なら半額以下で買えたし、新品でも流通にかかる費用をけずれば2〜3000円は安くなる。つまり手元に来るころには今のゲームソフトと同じくらいなんだ。今は新品でも最初からきりつめたねだんだから中古以外は下がらない。これは当時のゲーマーならよほどの情報弱者でないかぎり知らないはずはないんだが、中古がまん延していた事実を消したいのか、知ったかぶりたいのか知らないがなぜかネットではなかった事にされてるんだよな。