弥生人の故郷を探せ!

 「弥生人は海の民である」――これは誰もがそう思っている事であって、私の仮説を無視して教科書の内容だけ見てもこういった結論を出さざるを得ない。特に縄文人が海の民ではなく列島から一歩も出た事がないのなら、海外発祥のものは渡来系の弥生人が持ち込んだという事になる。渡来という単語から分かるように彼らが海を渡る航海技術を持っていたと考えるのは自然だろう。

 しかし、だとすると疑問に思う事がある。それは中国や韓国の歴史に「大量の大陸人が日本へ向かった」という記述が見当たらない事である。逆ならたくさんある。日本からは遣唐使や遣隋使がそうだし、卑弥呼も大陸に使者を送ったりしていた。また困った事に「倭寇(わこう)」という海賊もいれば、晩年の豊臣秀吉朝鮮半島へ出兵しようとしたなど、日本側から大陸に対してちょっかいを出すことはしょっちゅうある。

 それに対し大陸人は日本にあまり興味がない様子だ。これは彼ら大陸人の思想が自分達が世界の中心にいて、その中心が最も栄えているという「中華思想」の持ち主だっと考えれば理解できる。つまり都会人からしたら田舎の生活になんてもう戻れないし、興味もなければ、行きたくもねーよ!という話になる。これは今現在の彼らの態度「日本は中国や韓国よりも後輩で遅れた文明である」という価値観とも一致する。

中華思想 - Wikipedia

中国人の考える中華思想では、「自分たちが世界の中心であり、離れたところの人間は愚かで服も着用しなかったり獣の皮だったりし、秩序もない」ということから、四方の異民族について四夷という蔑称を付けた。

東夷(とうい) - 古代は漠然と中国大陸沿岸部、後には日本・朝鮮などの東方諸国。貉の同類。
西戎(せいじゅう) - 所謂西域と呼ばれた諸国など。羊を放牧する人で、人と羊の同類。春秋戦国時代秦王朝をこれに当てた。(蘇軾「夷狄論」)
北狄(ほくてき) - 匈奴鮮卑契丹・蒙古などの北方諸国。犬の同類。
南蛮(なんばん) - 東南アジア諸国や南方から渡航してきた西洋人など。虫の同類。

 そして、その事を考えると弥生人というのはますます謎に満ちた民族になる。彼らは明らかに中華思想の及ぶ文化圏に住んでいたはずだ。しかし、彼らは漢民族のいる中国を世界の中心とは思っておらず、中国人からすると東夷(とうい)という野蛮人のいるはずの日本列島にわざわざ「鉄器」だとか「稲」だとか持って向かった事になる。そこで生活する気マンマンである。

 さらに不可解な点はその後の日本人の行動である。遣唐使はようするに留学生の事だが、彼らの乗った船というのは金持ちのクルージングみたいな豪華で悠々自適な船旅ができるものではない。遭難が当たり前。そんな船で旅を続けようやく中国へ辿りつくわけである。もし彼らが中華思想を持っていたのならそのまま都会である中国に「移住」して日本のような辺境の土地へ戻る事もないだろう。しかし、実際は再び危険な船旅で戻っていったわけである。つまり帰りを待つ仲間や妻や子のために帰って来たわけで、日本に「定住」する事を望んでいたという事になる。

 これらの疑問はそもそも弥生人が大陸人ではなく、日本の原住民であったと考えた方が自然に解ける。つまり中華系の渡来人が未知の土地へ向かったのではなく、日本の原住民が大陸へ出て、技術を持ち帰ってきたと考えられる。そもそも弥生人が大陸人だというのなら、この弥生人はどこ出身なのかハッキリさせる必要があるだろう。方法は簡単だ。中国や韓国の発掘された遺跡や人骨から調べればよい。

 ところが問題はそう簡単ではない。日本の土地の土壌的な問題で弥生人の人骨がほとんど見つかっていないのと同じように中国や朝鮮半島の人骨も溶けてなくなってしまい、ほとんど残っていないのである。また、4、5000年近い歴史を持つ彼ら大陸人にとって2000年程度前の化石など興味がなく、保存する気が全くないという問題もある。だから弥生人に関しては日本はおろか、世界でも見つかったのは少数の人骨しかない。それでも、人骨で全てを語るならば「北九州(吉野ヶ里遺跡)・山口(土井ヶ浜遺跡)の人骨と、韓国(礼安里遺跡)の人骨と、中国北東部(山東省文物考古研究所臨淄工作站)の人骨はよく似ている」という現在の人々のミトコンドリアDNAが示すものと同じ結果が出ているのである。

【歴史のささやき】土井ケ浜・人類学ミュージアム名誉館長 松下孝幸 - 産経ニュース

山東省の人骨、渡来系弥生人に酷似

 1991年、福岡空港から飛び立った航空機が中国の上海上空にさしかかった。クリークが無数に走る地上の景色はまるで九州の佐賀平野を思わせる。ここ江南地域こそが、弥生文化のふるさとだと思わせるに足る風景であった。

 佐賀の吉野ケ里弥生人や、下関の土井ケ浜弥生人ら北部九州・山口の弥生人が渡来人の系譜を引いているとすれば、中国大陸にも同じような人々がいたに違いない。

 しかし、江南地域からは約2000年前の人骨が発掘されていなかった。この時期の人骨が保管されていなかったのである。

(中略)

 調査団メンバーにあきらめムードが漂った。そんなわれわれを、山東省で大きな驚きと喜びが待っていた。

 「山東省文物考古研究所臨●(りんし)工作站」に約300体の人骨群があったのだ。必死で探し求めていた約2000年前の人骨である。頭蓋(ずがい)をみた瞬間、すぐに北部九州・山口の弥生人にそっくりだとわかった。ついに探し当てた。重大性を所長に説明し、共同研究を始めることが決まった。

 その後、1994年から3年間、山東省臨●へ通い、古人骨の研究を行った。頭蓋を細かに計測するにつれ、山東省の古人骨が北部九州・山口の弥生人に酷似していることが確信に変わってきた。

 「これが歴史的瞬間なのか!」と鳥肌が立ったことを今も鮮明に記憶している。

 (中略)

 山東省の古人骨と、北部九州・山口の弥生人の酷似は、北部九州・山口の弥生人の大本が大陸にあるということを示唆する。彼らの出自についてはこれで決着が着いたと言ってもよいだろう。

 約2000年前、日本は列島内で自己完結していたわけではなく、東アジアと広くリンクしていたのだ。国内から出土する弥生人に地域差があるのは、おそらく、大陸における中国統一の戦乱による人の移動が、引き起こしたものであろう。

 ただ、山東省臨の人骨が北部九州・山口の弥生人に酷似しているからといって、彼らが山東省からやってきたということにはならない。その後、他の省からも少数ながら、彼らに似た人骨が出土している。朝鮮半島も含め、大陸のどこから、どのようなルートで、日本のどこへ入ってきたかは、まだ明らかになっていない。

 当たり前だが、人骨が見つかっただけではそこが故郷とは言えない。同じ時代に同じ人骨が見つかっただけでは日本と同じでどこか別の国からやってきた外国人がたまたま埋葬されて残っただけという可能性を否定できないからだ。

 ただし、このわずかな発見が何も生み出さなかったわけではない。

http://scs.kyushu-u.ac.jp/qtanak/sonota/zatubun.html

九州大学田中良之氏のページらしいが、「☆田中良之・小澤佳憲,2001:渡来人をめぐる諸問題.弥生時代における九州・韓半島交流史の研究.3-27.」というPDFファイルを参照していただきたい。このPDFの9ページ目に「図3.東アジア集団と礼安里人、弥生人」という図がある。正直な話、私もこの図の見方はよく分からないが、「Iという横軸」と「IIという縦軸」があり、

  • 北部九州(縄文)、津雲(縄文)、吉胡(縄文)、西北九州(弥生)の集団が左に、
  • 東日本(古墳)、北部九州・山口(古墳)、北部九州(弥生)の集団が真ん中に、
  • 咸北(新石器)、咸北(青銅器)がその右下に

それぞれある。おそらく上から縄文人弥生人、古代韓国人の人骨という分類なのだろう。そしてタイトルの礼安里人(古墳時代の韓国人)は真ん中の集団に近いという事を示している。これ自体は「弥生人半島人だから当たり前でしょ?」という捉え方も出来るが、問題は「現代の韓国人の位置」である。現代の韓国人は右下の咸北の人骨の更に右下。つまり、韓国人は原始的な容姿から弥生人の容姿になった後、どういうわけかまたもとの原始韓国人の容姿に戻るという奇妙な結果になってしまっているのである。

 そして更に驚くことは西南日本(現代)、華北(現代)華北(新石器)も右下に位置し、現代韓国人の人骨に近いという事だ。これはミトコンドリアDNAが近いことを考えれば不思議ではないが、弥生人の人骨から離れているという事は我々現代日本人は弥生人の子孫ではなく、原始大陸人の子孫だという事になってしまうのである。つまり、縄文人弥生人は形質が違う!現代人は弥生人だ!と言っておきながら、現代人と弥生人は形質が違う!現代人は何者なんだ!という結論になってしまっているのである。

 顔の変遷

古墳時代以降、いわゆる長頭化現象、すなわち、頭を上から見た時の形がだんだん前後に長く左右に狭い楕円形になる現象が起こった。理由はいまだによくわからないが、おそらく食生活の変化に起因する顎の形態変化と関係があるのではないかといわれている。いずれにせよ、歴史時代の中で最も長い頭を持っていたのが鎌倉時代人である。また、この時代の人たちはいわゆる「出っ歯」であったことでも有名である。ただし、この原因に関してもいまだに万人に納得のいく説明はない。

 もう一度国立科学博物館の人骨を見ていただきたいが、時代が進むにつれが顔が細長くなっているのが分かる。これに対して博物館は「食生活の変化に起因する顎の形態変化」と推測している。どんな理由だろうと形質の違いがあるのは事実である。だから上記のPDFの図も人種の変化によって起こったものではなく、「食生活の変化に起因する顎の形態変化」の可能性を見ないといけない。そうでないと古代人同士は近く、現代人同士も近く、しかし現代人と古代人は遠いという事の疑問が解けない。まさか弥生人すら縄文人と同じく駆逐された民族だというのだろうか?だとすると縄文、弥生に続く人種を見つけないといけないはずだ。

未来の日本人の顔

大阪のある高校の50年前と最近の卒業アルバムを使い、CGで50年前の平均顔と最近の平均顔を作って比較すると、高校生の顔は50年間で細長く変化していることがわかる。

 縄文時代の人骨がみな似た特徴で弥生時代に異なる形質が現れたとして、それが「人種」によるものなのか、「食生活」によるものなのか見極める事が可能なのだろうか?「図3.東アジア集団と礼安里人、弥生人」は日本人、中国人、韓国人を人種で分けようとするとあまりに開きが大きすぎての人種の移動が激しすぎる。しかし、「民族」として同じ食生活、文化を持っている人達がいて、その人達の影響で変化していったと考えれば無理なく考えられるように見える。

 話が横にそれてしまったが、極端な話、「弥生人の故郷は日本」であったとしても不思議ではない。この事を補強するために今度は大陸にミトコンドリアDNAを残した縄文人はどんな生活をしていたのかを考えよう。そう、縄文文化の典型である「貝塚は大陸にあるのか?」という事を調べる必要がある。

つづく