10時間目「それでも前に行くしかないんだから」

 みんなは「サッカー」の生みの親を知っているか?知らない?……そうか、実は先生も知らないんだ。けれどもサッカーという遊びをする時、「生みの親」の存在は必要ないんだ。選手(プレイヤー)としんぱん(ジャッジ)がいれば考案者(クリエイター)はいらない。

 サッカーというゲームは「子」と「子」の戦いだ。これは囲碁やチェスやウォーシミュレーションと同じくAチームとBチームに分かれて競う遊びだ。だから子同士がルールを覚えて正々堂々と戦えば、考案者どころか、しんぱんすらいらない。ゲームを遊ぶ時に最低限必要とされるのは「二人のプレイヤー」なんだ。

 一方で、そうではないゲームもある。ブラックジャックがそうだ。

ブラックジャック - Wikipedia

プレイヤーはディーラー(胴元)との間で1対1の勝負を行う。つまり、プレイヤーが複数いる場合には、ディーラーは複数のプレイヤーと同時に勝負をすることになる。

各プレイヤーの目標は、21を超えないように手持ちのカードの点数の合計を21に近づけ、その点数がディーラーを上回ることである。手の中のカードの点数は、カード2〜10ではその数字通りの値であり、また、絵札であるK(キング)、Q(クイーン)、J(ジャック)は10と数える。A(エース)は、手持ちのカードの合計が21を超えない範囲で11と数え、超える場合は1として数える。

 ブラックジャックも複数人で遊べるゲームだ。けれどもブラックジャックは直接プレイヤー同士で戦わない。カジノが用意したディーラーと呼ばれる人物(親)が出した課題に対して、プレイヤーがちょうせんし、意思決定により勝ち負けを決めるという遊びだ。最低限必要とされるのは「一人の出題者」と「一人のプレイヤー」だ。

 ん?何を言っているか分からない?難しく考える必要はない。世の中には大きく分けて2つ、立場が同じ「子同士で戦うゲーム」と立場がちがう「親と子が戦うゲーム」の二つがあると考えていい。前の授業で教えた「再挑戦度」というのは「親と子が戦うゲーム」の方に当てはまるんだ。例えばサッカーの再挑戦度は低い。なぜならサッカーでは「失敗した!」と思ってもその原因を知る事が難しいからだ。今のシュートは「右にけっていたら入った」と考えたとしても、敵も素早く「今度は右だ!」と思ってしまったら次のシュートも入るかどうか分からない。意思決定をする人物が二人もいるため、何通りもの結果が考えられる。次の勝敗がどうなるかは運がにぎっているといっても過言ではない。一方で意思決定するのが一人だけのゲームの場合、ゲームの勝ち負けはプレイヤーの選んだ行動により決定される。プレイヤーは失敗の原因を相手ではなく、自分自身に見つける事ができるんだ。

 「子同士で戦うゲーム」は「パソコン」で作られるようになった。パソコンは元々研究者が使っていた大型コンピュータを小型化したもので、元々の目的は「研究」。ここからパソコンでは「シミュレーションゲーム(計測器ゲーム)」というものが主流になっていくんだ。このゲームは一つの数字が上がったり下がったり変化するのを楽しむゲーム(+−型)と呼べばいいのかな。つまり、作られるデータ自体を楽しむ文化ができたんだ。そしてパソコンのユーザーは素人なのに専門家なみの知識を持っている「オタク」で、かれらは自分達でプログラムを遊ぶ事も作る事もできるという人達が多い。だからユーザーはプレイヤーであり、クリエイターでもあるんだ。

 対して「親と子が戦うゲーム」は「ゲームセンター」で作られるようになった。ゲームセンターは研究目的ではなく「ごらくしせつ」。コンピュータにふれた事のないいっぱん人でも遊べるようなゲームがほとんどだった。そのため製作者(クリエイター)が作ったものに対してプレイヤーがちょうせんしていくというスタイルが当たり前のものとなった。これらのゲームは結果的に「アドベンチャーゲーム(万歩計ゲーム)」の性質を持つ事になる。ひとつの数字をどんどん上げて次へ進んでいく事を楽しむ上達型のゲーム(++型)で、データというよりもプレイヤー自体が知識をたくわえ強くなっていくという文化と言えるな。

 このようにゲームセンターとパソコンという二つの全くちがうかんきょうに、全くちがうコンピューターとユーザーが存在するという事態が起こったんだ。*1これらの独自の文化はそれぞれの特性を活かしてゲームを作っていくわけなんだけど、この二つの文化は両者の丁度中間である「ファミコン」によってぶつかる事になる。

 1985年、週刊少年ジャンプに「ファミコン神拳(しんけん)」というゲームを特集したコーナーが出来た。そのコーナーを担当した「ゆう帝(てい)」はしゅみでパソコンゲームを遊ぶ事もあれば、作る事もあるという典型的なパソコンユーザーだった。そんなかれは仕事で「ファミコン」にふれる事になる。だとすると当然気づいただろう。ファミコンドンキーコングを初めとしたゲームセンターのゲームの延長にあり、パソコンゲームとは全く異なる文化であるという事に。

 かれはパソコンゲームの面白さをファミコンユーザーに伝えるために、かつてパソコンで作っていた自分の作品をファミコン向けにアレンジして出したんだ。動画の「ポートピア連続殺人事件」はその一つだ。このゲームは元々は「アドベンチャー」と同じくキーボードでコマンドを入力してかえってきた反応を楽しむというゲームだったんだけど、ファミコンにはキーボードなんてついていない。だからあらかじめ画面にコマンドを表示させて、その中から次の行動をえらぶという方法を使ったんだ。アドベンチャーから「意思決定」により進んでいくという部分だけを取り出したんだな。

 このシステムは「表示されているコマンドを片っぱしからえらんでいけば答えのルートにたどり着けてしまうからダメだ!」みたいな意見もあるんだけど、パソコンゲームになれていないファミコンユーザーにまずは「慣れてもらうため」に作られたものなんだ。かれはこの調子でウィザードリィみたいなRPGもファミコンで再現できないかと考えるようになる。そう、かれこそが1時間目に出てきたドラゴンクエストの「生みの親」、堀井雄二さんだ。

 ドラゴンクエストはこのように異なる文化を一つにして生まれたものなんだけど、それを語るにはまたまた時間がなくなってしまったな。おーし、今日はここまで!解散!

*1:もちろん、ファミコンにマージャンやマリオブラザーズみたいなシミュレーションゲームもあれば、パソコンもテキストベースのアドベンチャーゲームだったらたくさんありました。ここで言っているのは全体的な傾向です。