大陸の縄文人

 日本人と韓国人が同祖だと言うと、日本人からも韓国人からもブーイングが出てきそうだ。だが、そもそも縄文人弥生人というのが何故問題になるのかというと、琉球アイヌと日本人の遺伝子に差があった事にある。「近い場所の遺伝子が全く違う」という事は「自分達以外の民族を遺伝子ごと根絶やし」にしない限り起こらない。ここから「弥生人縄文人を根絶やしにして日本を作ったのだ」という仮説が出ていたわけである。ところが実際は大陸文化が流入した地点においても縄文の遺伝子が見つかり、それどころか朝鮮半島華北にすら見つかるのである。つまるところ縄文人は滅ぼされたわけではないのである。また、逆に「日本列島に縄文人しかいない」としたら、それは渡来人を皆殺しにしていたという事になる。「日本人の祖先は大陸人だ!」という意見も、「いや、原住民がほとんどだ!」という意見も「日本人は他民族を滅ぼしてきた野蛮人」だと主張しているわけである。これは私の考える歴史とは大きく異なる。

 さて、ありきたりな考え方としては、朝鮮半島にとどまった弥生人朝鮮人となり、もう片方が日本列島へ向かい縄文人と混血したと考えてしまいがちだ。しかし、考えて欲しいのは韓国人にも縄文人ミトコンドリアDNAが存在するという事である。これらの遺伝子はいつ韓国へ伝わったのだろうか?

 縄文人は初めから大陸にいたという考え方もある。だとすると当然、大陸にも縄文人の生活の痕跡があったはずだ。しかし、それらは何故か現代まで残っていない。――そもそも日本で縄文人の人骨が大量に見つかったのは貝塚によってカルシウム分がたっぷり含まれた土壌に埋まっていたからである。海へ行き、貝を拾って食べまくっていた民族だから骨が残っているのである。

 韓国にも「東三洞貝塚」という貝塚があり、ここから縄文土器なども発掘されている。つまり、韓国にも痕跡はあるのである。ところが、この貝塚は日本統治時代に発掘調査が開始されたものらしい。*1そういった「日本が」発掘調査を始めたものを除いて、韓国では縄文人に関する発掘はいっさいなされていない。考えられるのは2つで、韓国人は古代史に興味がないか、そもそも韓国にはその時代の遺跡が残っていないという事である。

 ここで、「韓国って寒いし、海にもぐらなかったんじゃね?」という質問が出てくるかもしれないが、縄文人の末裔と言われるアイヌの地「北海道」には貝塚が存在する。

参考:北の縄文 - 遺跡紹介:地図 | 環境生活部文化局文化振興課

 韓国人は縄文人のDNAを持っている。しかし韓国には縄文の遺跡が少ない。この二つの矛盾はどのように理解したらよいか。単純である。「人種」と「民族」を分類すればよい。半島にいた「縄文人」は「狩猟採集民族ではなかった」と考えればよい。

稲のたどってきた道 佐藤 洋一郎 氏

──稲作というと水田と思いがちですが・・・

佐藤 ところが、稲作は水田でなくてもできるのです。現在の日本の稲作は水田栽培が中心で、縄文時代晩期に渡来人達によって持ち込まれたとされていますが、じゃあ水田栽培以外の稲作は、日本では行なわれていなかったのだろうか、ということになります。

──何か発見があったのですか?

佐藤 はい。実は縄文時代の地層から、稲のプラントオパールが続々と検出されるようになりました。プラントオパールとは、植物の細胞にたまる0.05−o程のガラス状のケイ酸の塊が地中に残ったもののことで、このプラントオパールにより過去の植生や栽培植物の種を判別することができます。最も古いプラントオパールというと、岡山の朝寝鼻貝塚の土の中から、6000年前のものが検出されています。

それで1990年代に入って、ようやく縄文時代にも稲作があったということが考古学界でも認められるようになりました。

(中略)

──せっかくの水田で陸稲を栽培していた!?

佐藤 そうなんですよ。確かに見掛けは水田ですが、やっていたことは焼畑などの雑駁農耕だったんです。これは曲金北遺跡だけでなく、全国の弥生遺跡に共通する特徴です。

そうしたことから私は、ひょっとすると縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。縄文人というのは、もともと流浪の民ですから、フットワークはかなり軽くて、朝鮮半島まで行くのなんて朝飯前だったんじゃないかと(笑)。だからこの曲金北遺跡のように、水稲陸稲もごちゃ混ぜの農耕を行なっていた可能性があると思うわけです。

──なるほど、縄文人も外国の流行を取り入れたというわけですね(笑)。確かに、朝鮮半島から渡来した人達が水稲を伝えたのではなくて、縄文人朝鮮半島から持ち帰ったという推測もあり得ます。それにしてもDNA分析というのは、本当にいろいろなことが分りますね。

佐藤 これだけじゃないんですよ。実は、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。

──水稲でも、朝鮮半島経由ではない品種があったということですか?

佐藤 はい、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。

──確かに、有力な証拠ですね。

佐藤 求められるのはいつもそこですから(笑)。実際、柳田國男氏が「海上の道」と呼んだ、熱帯の島々から琉球列島を経て九州に達するといわれる道筋は、南西諸島に稲作跡がないのを理由に、物語としてしか扱われていなかったですからね。

 さて、Wikipediaによると、縄文時代とは(前14000年頃 – 前3世紀頃)のおよそ10,000年。弥生時代とは(前3世紀頃 – 後3世紀中頃)のおよそ600年。ご覧の通りケタが違う。そして専門家たちは発掘の結果この1万年の間ずっと人種は縄文人だけだといっており、人骨もほとんど同じだと言っている。

 だが、一万年間文明から切り離され、その間ずっと原始人みたいな生活していたのだろうか?縄文人はそこまでおバカな民族だったのだろうか?……これを否定する証拠が次々と発見されているのである。その一つが縄文人による「農耕」だ。上記の佐藤洋一郎氏によると「クリ」や「ヒョウタン」や「マメ」、「ゴボウ」などの栽培の痕跡を見つけている。

 普通、野生植物の集団というのは、DNAの並びはバラバラなのです。しかし三内丸山遺跡のクリの場合は、見事な程にDNAパターンが揃っていました。これは意図的に選抜して植林したためとしか思えません。そうなるとクリを育てるという高度なノウハウが、4000年以上も前からあったと推測できます。

さらに、ヒョウタンやマメ、ゴボウなどの栽培植物も発見されています。

 (人骨の)弥生人と違って、(人骨の)縄文人の故郷はハッキリしている。それは日本である。だとすると間違いなく、大陸から縄文人が来たというより、縄文人が大陸へ向かったと考えたほうが自然になる。そして縄文人が農耕民族を含む以上、大陸から貝塚があまり見つからなくても不思議ではない。なぜならば大陸の縄文人は狩猟生活ではなく、「稲作」をしていたからである。

 そう、この「大陸へ進出した縄文人」こそ「倭人」である。その後、弥生時代の中心に生き、朝廷を生み出す民族とはこの倭人なのである。アーリア人がインドとイランへ分かれたように、この「倭」という国がある大乱によって「新羅(しらぎ、シルラ)」と「大和(ヤマト)」に分かれた。倭という大国から日本(の一部)と朝鮮(の一部)が出来たのである。

つづく

*1:韓国人は○○のルーツは韓国!みたいな事を言いたがるが、実際に人種としての自分達のルーツに興味を持っているのは日本人の方だという事になる。韓国人は信じるという事を美徳にしているのかキリスト教儒教の信仰が厚く、時には「あの事件の裏側はねぇ、こうなっていたんだよ」みたいな陰謀論の類を学者レベルで信じてしまうくらいなんでもかんでも「疑わずに身につける事」を重視する価値観を持っている。それゆえに疑って真実を探求するフィロソフィーが全然育っていないのでは?と疑ってしまう。