17時間目「もしこれが戯曲なら」

 ドラクエ5の目玉は主人公がまものを仲間にできる「まもの使い」である事だ。でも、その仲間にする方法がとても変わっているんだ。というのもまものをこれまでのドラゴンクエストのようにふつうに「たおす」。そしてたおれた敵が起き上がって「仲間にしてほしそうにこちらを見て」くるんだ。

 5が出た時にはすでに敵を仲間にするアイディアはあった。「女神転生」がそうだな。
デジタル・デビル物語 女神転生 - Wikipedia

仲魔
敵の悪魔が1体だけの時は中島のCOMP(コンピュータ)で話すことで勧誘することができる。悪魔はアイテムやマグネタイト、マッカを要求し、これに応じれば仲魔(仲間の悪魔)になってくれることがある。ただし、敵の種族によっては絶対に仲魔にならないものもいる。1種類につき1体までしか仲魔にできず、既にストックにいる悪魔に話しかけても挨拶をして去っていくだけである。

「会話」や「アイテムをわたす」といった方法で仲間にする。これは自然な発想だ。ドラゴンクエストシリーズでも「ドラゴンクエストモンスターズ」は「しもふりにく」のようなアイテムでなつかせる事によって仲間にしているわけで、女神転生と似たような発想だろう。

 あるいはポケモンのようにHPを減らして「つかまえる」という方法もあったはずだ。その方が相手をたおしたのにとつぜん起き上がるという不自然な演出も必要ないだろう。なぜ、ドラクエではあえて敵を全めつさせた後に仲間になるかどうかの判定を行うんだろうか?

 ……これこそがドラゴンクエスト5最大の「発明」だ。考えてほしい。たおした後に起き上がるという事は、まものは実は「死んでいない」という事だ。この演出がある事によってドラゴンクエスト5は――いや、ドラゴンクエストシリーズはモンスターを「殺している」のではなく、「たおしている」のだというイメージをあたえる事に成功している。ポケモンのようなHPをギリギリまで残してというシステムを使ってしまうと「HP=命」というイメージが出来てしまい、たおしたモンスターのほとんどの命をうばっているような気がしてしまう。それをかいひしている。

 また、下手に「アイテムをわたして」といった方法を使ってしまうと、わいろというか裏取引というか何かおもわくがあって仲間にした、なったというイメージができてしまう。そうではなく、自分の自由意志によって仲間になったというクリーンなイメージを持ってもらうため、あえて「仲間になりたそうにこちらを見つめている」という演出にしたのだろう。当然そのシステムにするために主人公にはそれだけの「みりょく」というものがある事にしなければならない。

 そして主人公の「みりょく」を最大限に引き出すために、ストーリーにはきょ大な「悪」が設定された。それが「光の教団」だ。光の教団はドラゴンクエストの世界における新興宗教のひとつで、信者をどんどん増やしているんだけど、実はまものが支配している集団なんだ。かれらは「(高貴な身分の)子供たちの中から勇者があらわれる」という予言を信じ、各地の子供たちを探して、勇者だったら殺し、ちがったとしてもさらってドレイにしてしまうという事をやっているんだ。

 教団とついているが、別にドラゴンクエストのスタッフは「カルト教団に気をつけましょう」という事が言いたかったわけじゃないだろう。重要なのは「光の」の部分だ。光という言葉はいっぱん的にはいいイメージの言葉だ。これまでのドラゴンクエストだったら味方が使うべき言葉で、敵であるならば「やみの教団」でもいいわけだ。ところがドラゴンクエスト5の世界はこれまでとはちがう。スライムですら「ぼくわるいスライムじゃないよ」という世界だろ?こういう世界だと自ら「悪ですよー」なんて事は言わない。より現代に近い価値観になったのだから、悪人も「善人のフリをして」悪さをした方が動きやすいんだ。みんなはさぎ師って知ってるか?人をだます人の事なんだけど、意外と悪人面のさぎ師ってのは少なくて、いい人そうな人がさぎ師には多いんだ。その方が余計なけいかいをされる事もなく、相手を油断させられるからね。

 「こどもをさらってドレイにする」というのは、どんな身分だろうが、どんな世代だろうが、どんな性別だろうが関係なくだれにとっても分かる明確な「悪」だ。我々の世界にも存在する「悪」だ。これはゾーマのような行動動機が意味不明でプロレスのヒールみたいな堂々とした悪でもなければ、デスピサロのような立場がちがえば善になるような悪でもない。

 そしてここに「まもの使いという人々からあやしまれる職業につきながら異なる立場の者を結びつけ一つの共同体(家族)を作り出す主人公」と「光という人々からいいイメージをもたれながら裏では家族のきずなを引きさく光の教団」という二つが「対比(たいひ)」されることになる。

 対比というのはドラマで使われる手法だ。有名どころだと「ウサギとカメ」だとか「アリとキリギリス」だとかがあるな。それぞれのキャラクターにちがう行動をさせて、それぞれがその結果どうなっていくかをえがいていく方法だ。ドラゴンクエストスーパーファミコンというファミコンよりもはるかに表現能力が上がったハードを手にした事でドラマなどで使われるこの「対比」を使って「悪いやつをやっつけるストーリー」を表現したんだ。「人」と「まもの」ではなく、「家族を作り出す者」と「引きさく者」という対比によって善悪を作ったんだな。だから「5」にはこれまでのドラクエにあった中世的な善悪の価値観というのはなくなったんだ。

 ちなみにこの光の教団に出会うのは主人公の子供時代の最後だ。ここで主人公を人質に取られた父親のパパスはリンチを受けた挙句焼き殺されてしまう。先生も始めてプレイした時はあまりのショックに何か選たくをまちがってしまったのだろうかと思ったもんだが、このムカムカするシーンには重要な意味がある。それはこのパパスの最後がまものを仲間にするシーンに似ているという事だ。バトルが終わって死んだと思ったパパスはまだ息があって最後にメッセージを残すんだけど、光の教団は問答無用で殺してしまうんだ。ものすごくイヤなシーンとしてプレイヤーの記おくには残るけど、まものも同じようにたおれた後起き上がる。つまりパパスの最後を連想して「仲間にしますか?」という問いに思わず「はい」を選びたくなるんだ。そして「はい」を選んだという事は光の教団と自分はちがうという事になる。対比構造が際立つんだ。物語がプレイヤーの行動を作り、プレイヤーの行動が物語に深みを増すというハイレベルな手法が実はドラクエのシナリオのすごさだったりするんだな。

 ドラゴンクエストがち密な計算によって作られたゲームであるという事がわかってきたかな?幼少期にまものにもいいやつがいる。まものをゆるすといい事がある。敵対している相手がだれかにだまされているだけかもしれない。という価値観を見せた上で最後にパパスの最後を見せる。これらをふまえた上で「まものを仲間にする」というシステムが登場する。ちゃんとシナリオがシステムに慣れてもらうためのチュートリアルになっているんだな。

 とまぁ、ここまで語れば先生がドラクエについて語りたい事のほとんどは語ったようなものだけど、まだ語りたりないところもあるなぁ。まぁ、時間になったからそれは次回にしよう。おーし、解散!