しょうゆ顔?いいえ、チョーシュー顔です。

 文明開化の時代、明治。日本は外国から優秀な先生方を招いて学問的にも発達していこうとしていた。そんな中、外国から招かれた医学者の一人に「エルヴィン・フォン・ベルツ」という人がいた。彼は日本で暮らしているうちにある事に気づいた。「日本は長い間鎖国をしていて、民族は一つのはずだ。だが明らかに顔の形質に差がある。これは何故だ?」――彼は調べた結果、日本人には大きく分けて二つのタイプが存在する事が分かった。

 一つは長州顔。長州藩(現在の山口県)出身の人達の顔つきである。伊藤博文山県有朋高杉晋作木戸孝允毛利敬親など。顔が長く、堀が浅い。ほっそりとした体型、貴族的形質。上流階級に多い。モンゴル系。

 もう一つは薩摩顔。薩摩藩(現在の鹿児島県)出身の人達の顔つきである。大久保利通大山巌五代友厚西郷従道桐野利秋など。丸顔で目鼻が大きい。庶民的、マレー系。

参考1:元気になるメールマガジン!! 山口きらめーる [ おもしろ山口学 ]
参考2:あなたの中の縄文度・弥生度/幕末人の顔写真に見る骨格 ( 歴史 ) - 民族学伝承ひろいあげ辞典 - Yahoo!ブログ
参考3:http://blogs.yahoo.co.jp/akihito_suzuki2000/59551435.html

モンゴル系とマレー系の違いについてはこちらにある大正時代に外国人が書いた本の画像で判断してもらいたい。*1

 話の流れでお分かりいただけただろうが、これが縄文顔、弥生顔のルーツである事は言うまでもない。この分類は平成でも昭和でもない明治の分類法なのだ。明治時代の大先生が見つけた知見を100年近くもコピペ、コピペしてきたのが日本の学者という事になる。しかも、ベルツはアイヌという少数民族がいる事を発見し、アイヌこそが先住民ではないかと考えていたらしい。つまりここもベルツがオリジナルというわけだ。ここまでパクリだと恥ずかしいを通り越して情けないとしか言いようがない。

 この当時の人種観というのは現在の人種観とは異なる。アメリカで奴隷反対派であるリンカーンが当選したのは1860年明治元年が1868年だからたった8年前までアメリカですら有色人種のドレイがいた時代である。当時はアジアだけで見てもインドはイギリスに、カンボジアはフランスに、フィリピンはスペインに、マレーシア・インドネシアはオランダによって植民地となっていた。文化的に見ても有色人種はだいぶバカにされていた時代である。

 また、科学的に見ても人種の捉え方が全然違う。基本は形質(要するに見た目)で物を考える。黒人の血が入って肌が黒かったら黒人というような単純なものである。当然、DNA研究もそれほど進んでいない。こちらによれば

ミトコンドリアは、1897年(明治30年)、ドイツの医師であるカール・ベンダ氏が発見しました。その名前の由来は、ギリシャ語で「糸」を意味するミトと「粒」を意味する「コンドリア」の合成語です。100年以上前に発見された当時から、ミトコンドリアには糸状のものや粒状のものがあることが分かっていたにもかかわらず、最近まで、その制御機構や生理的意義は未解決のままでした。

とのことで、ベルツが日本に来て20年くらい経つまでミトコンドリアDNAのミの字もないような時代である。

 もちろん、この事でベルツを責めるつもりはない。彼は今風にいうならば親日外国人で、日本人の奥さんがいた。グローバル化が当たり前の現代では感覚が麻痺してしまうが、この当時、白人と有色人種が結婚するという事がどれだけすごいか、どれだけの障害を乗り越えての結婚だったかといろいろ想像してしまう。Wikipediaから言葉を引用させてもらうが、彼は日本人以上に日本の事を考えていたのだろう。

「不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去についてはなにも知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、なにもかもすべて野蛮でした」、「われわれには歴史はありません。われわれの歴史は今、始まるのです」という日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることはわかるが、大変不快なものである。日本人たちがこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。なにより、今の日本に必要なのはまず日本文化の所産のすべての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくりと慎重に適応させることなのだ。」

「日本人は西欧の学問の成り立ちと本質について大いに誤解しているように思える。日本人は学問を、年間に一定量の仕事をこなし、簡単によそへ運んで稼動させることのできる機械の様に考えている。しかし、それはまちがいである。ヨーロッパの学問世界は機械ではなく、ひとつの有機体でありあらゆる有機体と同じく、花を咲かせるためには一定の気候、一定の風土を必要とするのだ。」

学者としても優秀だ。しっかりとした観察力で、当時まだ誰も疑問に思っていなかった日本人のルーツについて興味を持つ。この結果からそのルーツを探すことこそ哲学の第一歩だ。ダメな学者は学問を宗教や政治にしてしまう。

 そもそも、話がややこしくなったのは長州・薩摩という政治勢力と形質を関連付けてしまった事だろう。この二つの藩は今で言ったら右翼左翼のようなもので、この場合、明治政府のトップに立ったのが伊藤博文という長州出身者。武家の顔は長州顔。……といった点から長州が右翼的な立場になり、反政府的な立場から見れば自分達を支配するイヤなヤツラの顔つきという事になりうる。そうした左翼的な見方を続けた結果現在のような弥生人征服説なるものが成り立ってしまった。しかも、その上位版の騎馬民族征服王朝説なるものもあるらしく、どうやら日本人の祖先は二度も大陸から支配されたらしい。

 が、実際のデータは「征服説」を否定する。長州藩士の顔は確かに上記の参考1のリンクにあるように、土井ヶ浜タイプの弥生人の形質によく似ている。このタイプがその後の日本の主流になっていったのも事実ではあるだろう。しかし、注目してほしいのは薩摩顔である。以前の記事で述べたような気がするが、九州から出てくる弥生人骨というのは地域によって形質が異なる。北九州はいわゆる渡来系とされる形質だが、西は完全に縄文系。南九州は縄文とも琉球とも似ている形質。……明らかにこの南九州の弥生人骨と薩摩藩士の顔は関係がありそうだ。

 そして、この事こそ日本人の祖先の定住説を裏付ける。日本人の形質は弥生時代から変わっていないとするならば、彼らはそこにずっと住み続けた人達の子孫という事になる。相手に興味がなかったか、平和主義だったか、あるいは敵対していたが実力が同じくらいに拮抗しており、にらみあいの状態にあった――いずれの場合も征服の一言で片付けられるほど単純なものじゃない。もし、弥生タイプがあっという間に日本を埋めつくしていったのなら、薩摩の人達は弥生タイプになっていないとおかしい。お得意のレイプ説、混血説にしても、古代の人骨と藩士達の形質に差がなければおかしい。

【歴史のささやき】あり得ない弥生人骨の出現 山口 - 産経ニュース

あり得ない弥生人骨の出現 山口

寄り添うように出土した702号人骨(左)と、縄文人の特徴を備えていた701号人骨

 □土井ケ浜・人類学ミュージアム名誉館長 松下孝幸氏

 わが目を疑った。

 このような弥生人骨が「土井ケ浜遺跡」から出土するはずがない。昭和57年10月26日のことである。私は土井ケ浜遺跡の第7次調査に参加していた。憧れの遺跡であり、土井ケ浜遺跡の発掘調査に参加することができただけでも奇跡に近い。

 目の前に、2千年の眠りから覚め、まさに出土しようとしている人骨がある。はけやブロアーを使い、顔面を覆っていた砂を慎重に取り除いた。保存状態はきわめて良好である。

 ブロアーで鼻根部(鼻の付け根)の砂を吹き飛ばした瞬間、目がくぎ付けになり全身がフリーズした。鼻根部が深くくぼんでいる。これまでに見つかった土井ケ浜弥生人の特徴ではない。

 土井ケ浜遺跡の発掘調査は昭和28年から32年までの間、5次にわたる発掘調査がおこなわれ、約200体もの弥生人骨が出土した。当時、弥生人骨の出土は全国でも皆無に近かった。その後の研究の成果で、土井ケ浜弥生人は、顔が高く(長く)、顔面は扁平(へんぺい)で、高身長であることが判明した。

 ところが、私の目の前にある人骨は、これまで発掘されたものと、あまりに顔つきが違う。

 「この土坑墓は本当に弥生時代のものですか?」

 山口県教育委員会の担当者に思わず聞いてしまった。担当者は不可解な表情で「弥生時代の墓ですけど、どうしてですか」と問い返した。

 「実はこの人骨の顔面には土井ケ浜弥生人の特徴はみられず、どうみても縄文人の顔なんです」

 これが私が土井ケ浜遺跡で出会った初めての人骨(701号人骨)だった。

 この時の衝撃は鮮烈で、今も目を閉じると、そのときの光景が蘇る。

                   ◇

 701に寄り添うようにして埋葬されていた人骨(702号人骨)は、これまで知られている土井ケ浜弥生人そのものだった。どちらも男性だが、顔もプロポーションも対照的で、異質である。

 701は、顔の高さ(長さ)が短く、横幅が広い。「低・広顔」という。眉の上「眉上弓」が隆起し、鼻骨も隆起しているので、鼻の付け根(鼻根部)が陥凹(かんおう)している。いわゆる彫りの深い容貌だ。身長は158・8センチしかない。これらは縄文人の特徴なのである。

 一方、702は、顔が高く(長く)、横幅が狭い「高・狭顔」だった。鼻は低く、鼻根部は扁平で、彫りが浅い。身長は165・9センチもあった。

 これほど身体的特徴が違う弥生人が、なぜか寄り添うようにして、埋葬されている。一体、この2人はどのような関係にあったのであろうか。

 土井ケ浜弥生人のなかには701のような縄文人的形質をもった人骨は他にないのだろうか。もし、この1体だけとしたら、701とは一体何者なのであろうか。第7次調査を終え、土井ケ浜遺跡を後にしても、このような疑問が次から次へとわき上がった。

 土井ケ浜弥生人のルーツを探る、長い旅がこの瞬間、始まった。

 まさか、土井ケ浜弥生人が沖縄などの琉球列島や大陸と深い関係があろうとは、この時は予想もしなかった。

 事実は小説よりも奇なりとは言ったものだが、このように典型的弥生人と縄文的弥生人が寄り添っている状態で発掘された。これは「敵対」とか「征服」とかいう言葉で説明がつくものだろうか?私には何かそういった言葉だけでは表せない特別な絆のようなものがあるように感じられる。*2

 我々は一旦、歴史の中の「政治的」なものを一旦洗い流して、もう一度クリーンな目で歴史の中の「事実」を見ていかなければならない。ベルツが投げかけた「日本人のルーツは何か」というテーマを発展させるためには、ベルツの時代にはなかった我々の時代の発見、価値観、データから考えていく必要があるだろう。

つづく

*1:ぱっと見スピードワゴン小沢とキンタロー。に見えるが、モンゴル人にもマレーシア人にも似ていない。どちらも日本人の顔だ、まぁ、「系」って書いてあるし仕方ないか。

*2:「どちらも男性」という部分に反応して┌(┌^o^)┐ホモォ…なものを期待しないように