20時間目「水晶柔く光り散りて」

 ファイナルファンタジー4といえば5人パーティが印象的だ。RPGのパーティはいっぱん的に3人や4人が多いな。あるいはウィザードリィみたく前3人後ろ3人の6人パーティというのもある。なんでこの数なのかは先生もわからないが、とにかく3〜4が基本で、5人というのはめずらしいんだ。FF4はなぜ5人パーティなんだろうか?

 5人――日本人だったらこの言葉を聞いて思いうかぶものがある。それは「ゴレンジャー」だ。みんなも朝のスーパーヒーロータイムで戦隊モノという番組がやっているのは知っているだろ?あれの元祖こそ「ゴレンジャー」だ。FF4の5人パーティはこれを意識したものじゃないだろうか?

 先生がそう思うのには理由がある。それはFF4のシナリオを担当したのが時田貴司さんだからだ。たとえば「親子のヒーロー講座」には次のような世代論が書いてある。

親子のヒーロー講座:はじめにお父さんへ

1966〜1970年生まれのぼくたちは、一般的には「バブル世代」と呼ばれることが多いようです。
たしかにそうでしょう。ぼくらが学生だった頃の日本は、空前の好景気を謳歌していました。株価や地価は上がり続け、「財テク」がブームになり、日本のカネで地球を買い占められるとまで言われたものです。
しかし、「バブル世代」と断言されることに実感があるかと言えば、そこには疑問も残ります。

(中略)

それでは、ぼくらの世代とは本当は何と呼ばれるべき世代なのでしょうか。
そう考えた時、ぼくらの世代が横並びに共有したひとつのムーブメントに思い当たります。それは、特撮やアニメによる「ヒーロー番組」の大群です。それは1971年の「仮面ライダー」に始まり、1979年の「機動戦士ガンダム」に終わる大ムーブメントでした。ぼくらの世代は物心ついたときから、ずっとヒーローとともにあり、その進化と隆盛と没落を目の当たりにしたのです。
今でこそテレビのゴールデンタイムは「お笑い」系に支配される状態ですが、1970年代はヒーロー番組(とプロ野球)が圧倒的な存在でした。チャンネルを回せば、どこかの局が必ずヒーロー番組を流していたものです。
例えばぼくが6才だった1973年でいえば、バビル二世、ミクロイドS、ゼロテスター、キャシャーンキューティーハニー、ファイヤーマン、ジャンボーグA仮面ライダーV3、ウルトラマンタロウ、流星人間ゾーン、ロボット刑事風雲ライオン丸キカイダー01レッドバロンイナズマン、鉄人タイガーセブン・・・まだまだあるでしょう。
これほど大量の「ヒーロー番組」の渦にのみ込まれた世代は、ぼくらを置いて他にはありません。それらはぼくら世代が共有する一つの財産であり、ぼくら世代に直接的に影響を与えたものです。
ならば、ぼくらは「ヒーロー世代」と呼ばれるべき世代なのかもしれません。
(親子のヒーロー講座:はじめにお父さんへ)

時田貴司 - Wikipedia

時田 貴司(ときた たかし、1966年1月24日 - )は日本のゲームクリエイタースクウェア・エニックス所属。元第7開発事業部長。

 この引用を信じるならば1966年生まれの時田さんはヒーロー世代という事になる。実際にかれの作品はヒーロー番組のえいきょうが大きい。ライブ・ア・ライブでくらやみの中に光る目はデビルマンのパロディだし、異形の敵との戦いに異形の力で立ち向かうパラサイトイブもデビルマン半熟英雄(はんじゅくヒーロー)はタイトルからしてヒーローものだし、スーパーマリオRPGにはオノレンジャーが登場する。

 そしてファイナルファンタジー4。この作品の主人公はあんこくきしセシル。かれはまちがいなく「仮面ライダー」そのものだろう。

『ぼくは ミシディアで・・・・
 つみもない ひとびとから クリスタルを!
 この あんこくきしの すがた どうよう
 ぼくの こころも・・・・!

ローザ「・・・・あなたは そんなひとじゃないわ。

『ぼくは へいかには さからえない
 おくびょうな あんこくきしさ・・・・
(バロン王国 セシルの部屋にて)

セシルはバロン王という人に恩があり、王様のために働くナイトなんだ。だけど、ある時、バロン王は人が変わったようになってしまい、まほう使いの村をおそってクリスタルをうばう事を命令してしまうんだ。つまり、物語の当初、セシルは悪人として現れるんだ。かれは物語のとちゅうで「あんこくきし」である自分自身と戦い、「パラディン」として目覚めることになる。これは特さつヒーローとおんなじ構図なんだ。

 上記の「親子のヒーロー講座」を書いた竹波エーイチさんのブログ「逆襲(ぎゃくしゅう)のジャミラ」には70年代のヒーロー番組についての考察がたくさん書かれている。一言で言ってしまえばそれらの番組は「アメリカがもたらした日本の戦後を正義、それ以前の大日本帝国(だいにほんていこく)的なものを悪」とする物語だったという事になる。特さつヒーローの生みの親であるマンガ家の石ノ森章太郎(いしのもりしょうたろう)さんは「サイボーグ009」「仮面ライダー」「人造人間キカイダー」など「悪に生まれた主人公が悪と戦う事でその宿命に立ち向かう」という物語を作り出した。これはかれの弟子である永井豪(ながいごう)さんの「デビルマン」にも受けつがれた。「自らが悪なのだから、この世界における悪は外側にいるのではなく、自分の中にあるんだ」

参考:Untitled Document

サイボーグ009 超銀河伝説 - 逆襲のジャミラ

もしかすると石森章太郎にとっては、ヒーローが戦う悪役の設定など、どうでもいいことだったのかもしれない。
問題なのは「悪」によって作られた身体を持つヒーローが、いかにして「善」の心を維持するかの内面の葛藤にあるのだろう。だから石森章太郎のヒーローたちは、やたらと悩む。島村ジョーも、本郷猛も、光明寺ジローも、とにかく悩む。自分が人間ではないことが、彼らを悩ませる・・・。

 この話は特さつヒーローについて語られているものだけど、ファイナルファンタジーのファンならドキッとする事なんだ。ファイナルファンタジーのボスキャラはよくドラクエのボスキャラと比べられ、「印象がうすい」「目的が意味不明」と言われる事が多い。つまり敵の設定がいまいちだったりするんだな。しかしそれはスポットライトが当たっている対象がちがうからなんだ。つまり、「敵そのもの」ではなく、その敵が現れることによって「主人公はどのような状きょうに追いこまれるか?」という事が重要なんだ。

 例えばFF4は次のようなイベントからはじまっていく。

 まず、ぎんゆうしじんギルバートのエピソード。かれはとても情けないキャラで、バトル中にできる事も少ない上に、HPが少なくなると勝手に「かくれる」ようになってしまう。このようにおくびょう者で弱虫なキャラなのだが、ある晩、街の中でリュートの音色を奏でているとサハギンというモンスターにおそわれる。その時、死んでしまったこいびとアンナのぼうれいが現れる。アンナにはげまされたギルバートは一人でモンスターをたおすことになる。

 その次の少女リディアのエピソード。かのじょはまほう使いキャラで、回復はもちろん、氷、かみなりなどのこうげきまほうも使える。ある時、かのじょの前に道をふさぐきょだいな氷が現れる。同じくまほう使いキャラであるローザはリディアが本当はほのおのまほうが使えるんじゃないか?と考える。しかし、リディアはそれをこばむ。リディアはセシルが持ちこんだボムのうでわによって村を焼きつくされた事がトラウマになっており、ほのおのまほうを使えなくなっていた。ローザに説得されたリディアはほのおのまほうを使い、一向は先へと進む。

 このようにFF4での登場人物の戦いは、敵との戦いである以前に、「自分との戦い」であるんだ。だからこそ主人公セシルもパラディンとしてめざめるために、あんこくきしである自分自身と戦うんだ。この時、「なんで町の中にモンスターが!?なぜこいつはとつぜん現れたんだ?この町の治安はどうなっているんだ?」とか「なんでこんなところに氷が!?他の回り道はないのか?」とか「そもそもなんで自分自身が分身しているんだ」という疑問はすべて無意味だ。なぜならここで重要なのは「そいつが立ちふさがる事で主人公はどんなアクションを起こすか?」という事が重要だからだ。

 アンチドラクエとしてはじまったFF。そのドラクエは自分達の目の届かない外側にいる本当の敵を探すという「外」へと敵を探していく話だった。では、その反対を目指すFFはどうするか?それは自分自身の「内なる敵」――例えば弱さなどと戦う物語を作る必要があるだろう。やいばを外ではなく内に向けることになったんだ。これはバトル中に「敵の姿しか見えないドラクエ」と「敵と主人公の両方の姿が見えるFF」がたどり着いた方法論だと言えるな。

FFIVの戦闘画面)
スーパーファミコン版の「ファイナルファンタジーIV」がスーパーNES版の「ファイナルファンタジーII」RPGは受けないと言われるアメリカ市場で健闘している。

任天堂公式ガイドブック「ゼルダの伝説/神々のトライフォース」【下】より引用)

 そうそう、ファイナルファンタジーは外国(特にアメリカ)でもヒットした作品だけど、この4はそのさきがけ的作品だ。なんといってもアメリカからすると外国製のゲームであるにも関わらずアメコミ化されるくらいの人気がある。

 かつてはヒットした要因をグラフィックに求めていたものだけど、パックマンスーパーマリオみたいな記号的なグラフィックが外国でも受けている事、ファミコンドラクエとアップルのウィザードリィをひかくすると明らかにドラクエの方がアニメーションもすればグラフィックがキレイな事を見ればわかるようにグラフィックどうのこうのは明らかに後付けの理由だ。本当の理由はドラクエが伝統的な日本の価値観に基づきすぎて受けなかったのに対し、FFが結果的に外国的(戦後的)な価値観を取り入れていったからと考えた方が事実に近いと思うんだ。

 そもそもアメリカ人にとっては悪から物語が始まるのは当たり前なんだ。かれらのほとんどが信じているキリスト教は、その物語の最初から「悪人」によって始まる。神様に「その実食べちゃダメ。ゼッタイ。」と言われたのに約束を無視して食べてしまう悪いキャラというのが聖書に出てくる最初のニンゲンなんだ。これは悪意のカタマリというより、悪にだまされる存在としてえがかれている。けど、言っている事はほぼいっしょで、「人間というものはほおっておくと、何をしでかすかわからない。いずれ悪人になってしまう。」というところからスタートして、それに対していかに悪に染まらず正しく生きるかを書き記したのが聖書なんだ。

 ドラクエが、戦前から続きスペースインベーダーなどに受けつがれた伝統的な日本的価値観のゲームだとするならば、FFもまた、アメリカのえいきょうによってできた戦後の新しい日本的価値観のゲームと考えられる。これらの作品は日本人の感性にピッタリとフィットしたからこそ、ヒット作になったといえるな。うん。

 FFはきばつなゲームであるかのように評される事が多いけれども、実際はドラゴンクエストをしっかり研究し、全くの対照的なゲームを作ろうというしっかりとした意図が存在する。もちろん、いつまでもドラゴンクエストの後を追いかけていたわけじゃない。それでは、ビジネスとしてはダメダメだ。だんだんとFFは他のゲームにはない自分らしさを作っていくんだけど、それは次回。おーし、今日はここまで。解散!