22時間目「私に還りなさい」

 90年代後半は「新世紀エヴァンゲリオンエヴァ)」が社会現象を起こすほどのブームになっていた。「ファイナルファンタジー7」もエヴァとよく比べられた。それはおそらく、シナリオの暗さ、SFチックな用語、意味深なセリフ、知識や生命というテーマ――といったふんいきが似ていたからだろう。先生もFF7はエヴァのパロディだったと考えている。けれどそれはさっき言ったような表層的なところが似ているからじゃない。作品としての構造の部分が似ているんだ。そもそもエヴァとはどんな作品だったのだろうか?エヴァの評論は山の数ほどもあるけど、先生が一番なるほどと思ったのはアニメ評論家の氷川竜介(ひかわりゅうすけ)さんの考察だな。

http://tuneari.fc2web.com/museum/evayawa.html

氷川:はい、こんばんは、アニメ評論家の氷川竜介です。
   今夜はですね、エヴァンゲリオンといえばこれというテレビ版の最終回、そこで非常に色んなアニメの技法が出てくるんですが、
   あれが何だったのかということをですね、私なりの解釈をちょっと述べてみたいと思います。
   で、劇場版がでてきてから分かったんですが、劇場版ではですね、
   人類補完計画の事件としての補完計画が描かれているんですが、テレビ版はですね、
   シンジ君がうじうじうじうじと自分はなに?世界はなに?と悩んでて、まったく同じ事件が描かれているとすると、
   あれはテレビは要するに物語としてはシンジ君補完計画だということができると思います。
   その一方でじゃああの線画になってしまう絵はなんだというとですね、これは私なりの考え方なんですが、
   あれはもしアニメというものがですね、自意識を持って自我を持って、アニメがアニメってなんだろう、
   僕アニメなんだけどアニメってなに?って考えていくと、ああいう映像になる、
   いわばアニメ補完計画じゃないか、という風に思っています。
   じゃあその証拠を映像を使って説明していきたいと思います。
   まずこれが普通のエヴァンゲリオンの映像なんですが、
   キャラクターはシンジ君というこういうセル画のキャラクターで描かれていて、世界は画用紙に描かれた背景画という、
   世界が背景画置きなんですよね。これが最終回でどうなっているかということをビデオを使って説明したいと思います。
   じゃあビデオをお願いします。これ最終回、二十五話、二十六話まとめて最終回だとすると、これ最終回の映像なんですが、
   まったく背景ないですね。世界を喪失してしまったアニメーションの映像なんですよ。
   だからシンジ君は自分のキャラクターだけになっちゃって、シンジ君が何だって考えているのと同様に、
   アニメーションと映像が、俺アニメなんだけどアニメって何なんだんだっけ?
   世界ってどこいっちゃったんだっけ?って考えている映像がこれだという風に考えることができるわけです。
   そのシンジ君が一人になったときにキャラクターが次にどうなるかというと、
   僕アニメなんだけどアニメって自分は絵だったんだって気がつくシーンなんですよね。
   これはマーカーとペンで描かれてるんですが、アニメたってセルって人間の目に見えてたかもしれないけど、
   ペラペラの絵なんだって形で絵になってしまう、これがこのシーンだと考えられます。
   じゃあこれが次にどうなっていくかなんですが、
   さらに今度は色までなくしちゃって全部線画になっちゃって何枚かの置き換えで、
   これペーパーアニメっていう手法でよく実写アニメはこういう手法で作られるんですが、
   本当に今度はもう塗ってる影もなくなっちゃって、地平線はただの線でどんどん喪失感がなくなっていって、
   アニメは根源的に線だけでできている、アニメってこう線で描くで、さらにこの線が意味もなくして抽象的なものになっちゃって、
   根源的な記号になってしまって、魚になったりして一瞬形を整えるんですが、その意味もなくなっていく、
   こういう形でアニメが自分が自分として何なんだろうといってアニメが自分のことを考えたときにぼんと自己崩壊していくってのと
   シンジ君が自分が何だってぱっと気がつくんですが、アニメの気がつく表情だってただの記号で、
   これだってシンジってわかっちゃうでしょっていうような、そういうような形で映像が自分語りみたいなことを始めている、
   これがエヴァの最終回の映像なんじゃないかという風に思います。
BSアニメ夜話より)

 たとえば、「愛している」というメッセージを伝える時、詩人なら詩、作曲家なら音楽で、花屋さんだったら花言葉で伝えるよな?それならばアニメーターならアニメで表現するのが正しいんじゃないだろうか?エヴァは「自分って何なんだ?」「そもそもアニメって何が面白いんだっけ?」という事をアニメという手法で表現したものなんだ。「アニメとは何かを語るアニメ」と言ってもいいな。90年代といえばアニメが行きづまっていて、ドラゴンボールセーラームーンはヒットしていたけど、それはマンガが動いているだけで、アニメってマンガファンのおまけグッズじゃね?という風潮があったんだな。だからアニメは子供かオタクが見るものであって、日かげ者だったんだ。そんな時代に「アニメって何だ?何が面白いんだ?」というテーマはグサリとささったんじゃないだろうか?

 さて、エヴァのパロディをゲームでやりたいのならば、このように「自分達の文化って何だろうか?」というテーマが必要だ。ゲームならゲームという表現方法でやらなければならないだろう。……FF7がそうなんだ。この作品は「RPGって何だっけ?」「そもそもゲームって何が面白いんだっけ?」という事をゲームという手法で表現したものなんだ。

 物語はだいきぎょう「神羅(しんら)カンパニー」とテロリスト組織「アバランチ」の争いから始まる。FF7の世界には「生命エネルギー」とよばれるものがあって、これが人の命を作ったり、大自然を作ったり、まほうの源になっていたりするんだ。これは星にとっては血液のようなもので、星が生きるためにはなくてはならないものなんだ。

 ある時、神羅カンパニーはこの生命エネルギーを発電のエネルギーに変える技術を見つけるんだ。この技術を使って神羅カンパニーは人々の生活を豊かにしていった。神羅がきょ点をおいていたミッドガルは「魔晄炉(まこうろ)」と言われる発電所8つと、それによって分断された8つの街、中心には70階をこえる大きな神羅ビルが建つという工業都市に生まれ変わった。それにともない、軍事、科学、宇宙開発などあらゆるものは神羅が支配するようになる。

 そんな神羅の横暴の裏で、人々は生命エネルギーの秘密を知る。人や自然は死ぬと星へかえるけれども、消費されたエネルギーはそのままなくなってしまうんだ。このままでは星の命はけずられ、自分達はこの星に住めなくなってしまう。神羅に反対する人達の中から星を守る武装集団アバランチが結成される。彼らは魔晄炉の爆破(ばくは)ミッションを考え実行する。

 ここまで聞いて、考えてみてほしい事がある。星の命をけずる――しかし神羅は悪と呼べるのだろうか?神羅はたしかに会社として見たらそうとうブラックでいい会社とは言えないだろう。しかし、かれらの技術が人々の生活を豊かにしている事も事実だ。一方でアバランチは爆破ミッションにより、市民までもまきぞえにしているが、星の命のためにいっぱん市民をぎせいにするかれらは果たして善と呼べるのだろうか?この両者は立場や思想がちがうだけでどちらが優れているというものじゃない。この戦いはウォーシミュレーションゲームのようにA軍、B軍に分かれて戦っているにすぎないんだ。

 さて、この中で主人公クラウドはどのようにあらわれるのか?――まず、クラウドはソルジャーの1stクラスという元々神羅にいた人間として登場する。ソルジャーは選りすぐりの特別な戦士でものすごく強いんだ。ところがかれは神羅を裏切り、敵であるはずのアバランチに金でやとわれて爆破ミッションに共に参加する。つまりB軍からA軍にやってきた人物という事だ。

 クラウドは「興味ないね」が口グセだ。金のために戦う事から分かるように物語当初のかれは相当ドライだ。神羅にいた後ろめたさから戦っているわけでもなければ、星の命のために戦っているわけでもない。善悪ではなく、自分のために戦うだけなんだ。これは王様のためでも市民のためでもなく自分のためにワードナをたおすというウィザードリィの価値観に近い。つまり、FF7はウォーゲーム、そしてそこから生まれたTRPGやウィザードリィの価値観にかえったんだな。

 ところがこの構図はあるキャラクターの登場によって幕を閉じる。それは英雄(えいゆう)セフィロスだ。かれはB軍のボスであるプレジデント神羅を殺し、そのまま姿を消す。はたしてかれは星を守る英雄なのだろうか?それとも――というところからFF7の物語ははじまる。

 ここまででFF7、第一部「ミッドガル編」は終わりだ。ここから先は第二部「黒マント編」が始まるんだけど、それは次回にしよう。おーし、今日はここまで。解散!