29時間目「真実は何処なのか」

 バッドってのは悪いって意味だ。……いや、別に英語の授業が始まるわけじゃないぞ。ゲームにおけるバッドエンディング(悪い結末)というのは基本的に「ゲームオーバー」の意味で使われてきたんだ。このバッドエンドには大きな欠点がある。それはわざわざ好き好んでゲームオーバーになりたい人なんていないって事だ。

 物語を作る立場から言うとバッドエンドをえがくために、登場人物を動かしたり、そのために事細かにびょうしゃしたりする。という事は文章も、音も、絵も用意しなければならないわけで、そのぶん手間がかかっているんだ。けれども「再挑戦」というゲーム的な要素が物語に加わってくると、プレイヤーは基本的には「失敗」をさけて「成功」を目指すようになる。一度成功した場面でわざわざ失敗したくなる人っていうのは、よほどの物好きかマゾヒストじゃないといないだろうな。「このゲームはマルチエンディングで全てのエンディングを見ないと画像が集まらないよ!」みたいな事を言われても、一度キャラクターが幸せそうな姿を見たプレイヤーはわざわざバッドエンディングを集めても、気がめいるだけでちっとも楽しくないんだな。そもそもバッドエンディングがゲームオーバーの代用品だったころはペナルティとして用意されていたんだから、楽しいわけがないんだ。

 でもな、この「バッドエンド」はある工夫をする事によって、苦痛ではなく、集めたくなるストーリーに変える事が出来るんだ。それはゲーム内に、成功体験以外の「正解」を用意する事で可能になったんだ。

 ノベルゲームがいろんなメーカーによって作られるようになると、その中で「トゥルーエンド」というものが発明される。これは一見するとバッドエンドっぽく見えるけど、その物語で本当に起こった真実(トゥルー)のエンディングというものなんだ。最初はエッチなゲームで使われていたものなんだけど、本家であるチュンソフトが意図してか、ぐう然か採用した。そして作られたのが「街」だ。

 このゲーム最大のとくちょうははバッドの定義が変わっているという事だろう。いっぱん的なゲームはキャラクターがハッピーになって終わり。プレイヤーは笑顔のキャラクターを見て満足して終わりにできる。けれどもこのゲームはキャラクターが事件に巻きこまれずに終わると、たとえそれが幸せな状態でもバッドエンドだと定義した。つまり本当にあったことだけが「真実」の正解だと定義した。真実、それ以外は全てバッドという思い切りによって出来ている。

 これは中々にすごい発明だと思う。くりかえし遊べるのがいいゲームと考えると、1本のハッピーストーリーを作るとそれ以外の失敗のルートはわざわざ遊びたくない。前作の「かまいたちの夜」はまさにそういうゲームだったから一度なぞを解くと、何度も遊んでもらえないジレンマがあったんだ。けれども「街」は本当のエンディングを見てもそれが最善のエンディングではない。だから、「あの時こうしていたらこんな展開もありえたんじゃないかなぁ」というif(もしも)の体験としてバッドエンディングを集めていく事ができるようになっている。

 このトゥルーエンドの発明によってゲームの物語は単純な成功体験だけでない、よりいろんな表現が出来るようになったんだ。え?ギャルゲーはどうしたって?それはまた来週。おーし、今日はここまで!解散!