32時間目「この空が勝手なほど」

 みんなは「ループもの」ってコトバを聞いた事があるかな?同じ状きょうが何度もくり返されることをループというんだけど、作中で登場人物が同じ時間をくりかえす物語のことをループものと言うんだ。一説によるとゼロ年代(2000年〜2009年ごろ)にはループものの作品が多かったらしい。そして、その起源をたどると、アニメでは「ビューティフル・ドリーマー」。マンガでは「火の鳥」にまでさかのぼれるらしい。でもな、先生はこれらの作品は別ジャンルじゃないかと思うんだ。それはそれぞれの作品において「ループ」に対するスタンスが全然ちがうんだ。

 まず、「火の鳥」では、一番未来の話でたったひとりになってしまった男が神様となって地球や人類を作って、一番過去の話につながっていく。この世界ではループとは「世界そのもの」のルールであって、一個人が望もうが望むまいが勝手にくり返される。世界は神様が書いたシナリオ通り進むしかないから、どうする事もできないというかなしい世界だ。

 次の「ビューティフル・ドリーマー」では、登場人物の一人が望んだ時間が延々とくり返される世界で、「理想」の世界だ。本当の世界はループしていないが、だれかが意図的にループを作り出した。ループを作り出した人物にとってはループする事自体が目的であり、うれしい状態になるわけだ。

 ところが、最近のアニメに多い設定では上記の二つとはループに対する認識がちがう。ループは乗りこえるべき「障害」と設定されている。世界は一度進んだらもどらない時間の世界で、だれかが望んでループしているわけでもない。ループを作り出した人間は過去にやりのこしたことがあり、それを変えようとするが「失敗」してしまい、過去にもどることと失敗をくり返し、結果的にループしてしまっている世界である。この世界ではループからぬけ出す事が目的だ。

 それでな、先生気づいたんだが、ここ数年のアニメにはゲームのシナリオライターがきゃく本を取ったものが非常に多いんだ。だから、ここ最近のループものの原点は実はゲームにあるんじゃないか?と思うんだ。ゲームにはループものが多い。有名どころだと「ムジュラの仮面」や「ガンパレードマーチ」なんかがあるな。そもそもスーパーマリオスペースインベーダーの時代からゲームというのはループものだったんだ。

ゲームで自分の操作しているキャラが死んだとき、人は二つの反応を示す。ひとつは「もういいや」って思ってそこでおしまいになるケースで、もう一つは負けてももう一度やろうと思えるケースだ。そして「もう一度やろう」と思える場合はそのゲームにハマっている状態とも言える。だから、この疑問を解けば「面白いゲームが作れる」わけなんだ。宮本さんはせんぱいの横井軍平(よこいぐんぺい)さんとこの事について考えて、「再挑戦度(さいちょうせんど)」というりくつを見つけたんだ。

 具体的にはこうだ。プレイヤーは何らかの理由で「失敗」をしてしまう。この時に、

  • プレイヤーに「失敗した!」と思わせる。(失敗か成功か分からない演出ではダメ)
  • 失敗した場面でなぜ失敗したのか?という「原因がわかる」ようにする。(こうりゃく法が分からないのはダメ)
  • 失敗する前の場面からスタートさせて「再挑戦」させる。(全てをチャラにされて最初からになるのはダメ)
  • プレイヤーに「成功した!」と思わせる。(失敗か成功か分からない演出ではダメ)

これにもう一つ

  • 「先をみたい」という動機(これ以上遊んでも面白くはならないだろうと思わせたらダメ)

を追加する場合もある。つまりプレイヤーに「ここはこうすればよい」と思わせる要素が多いほど再挑戦度が高いゲームという事が言えるんだ。

9時間目「もう一度生まれようこの場所で」 - 鈴木君の海、その中

 スーパーマリオの時代、ゲームにシナリオライターという職種はなかった。だから当時はゲームの出来事を物語として理解する事もなかった*1。もしもマリオの状きょうを作家が文章化したとしたら、まちがいなくループものになるだろう。

 こういうやりなおしについて評論家は「ゲームは都合が悪くなったらリセット」とゲームの悪い点としてあげたりするよな。でもゲームにおけるやりなおしとはすべてをチャラにして新しいかんきょうにすることでなく、困難の直前にもどり、再挑戦するためのもの。同じ状きょうでちょっと前にもどるだけ、でないとそもそもループしているとは言えないからな。同じ状きょうをくり返すのはやりのこしたことがあるからだ。つまり気まぐれではなく明確な目的がある。これと言った目的もなく楽しい状きょうをくりかえすビューティフルドリーマーのループとは根本的にちがうんだ。これは、「とび箱を飛べるようになるまで給食が食べられない世界」と言ってもいい。いっぱん的にそれは天国ではなく、じごくに近いと思わないか?ぬけ出す事がうれしい。いまよりも未来をよくする。上達していく――その楽しさ、うれしさは、漢字練習やピッチャーの投球練習なんかと根本的には同じことなんだ。

 そろそろ本題へ行こうか。今回とりあげるAIRもループものの一つだと言われる。それはゲームのシナリオとして考えれば何もめずらしい事ではない。注意してみなければならないのはどのようにループをえがいているかという点である。KEYの麻枝さんは好ききらいの分かれる作家だ。特ちょうとしては、かわいそうなきょうぐうの女の子が出てくる。しかもわざわざツラくなるような行動を選ばないといけないという、精神的に結構くる内容のストーリーをつきつけてくる。AIRにおいては、ちょっとワケありな女の子が3+α出てくる。その原因は主人公は知る事ができないし、どうする事もできないほど昔からのいんねん。プレイヤーは正直どうする事もできない。無力感がある。泣けると言われれば、たしかに泣けるかもしれないが、かわいそうなオンナノコを登場させて、そのコたちをいじめぬく必要が一体どこにあるのだろうか?ふつうに考えたらストレスでそんなゲームは遊びたくないはずだ。

 登場人物はかなしい目にあっているのに、正しい未来。それはハッピーエンドというよりトゥルーエンドの物語だけをえがきたいとも言えるけど、そもそもトゥルーエンドとは何のために生まれたのか思い出そう。

 ノベルゲームってのはアドベンチャーゲームといっしょくたにされやすい。でもな、ノベルゲームってのはテニス、RPG,チェスのように現実にあるゲームブックという遊びをシミュレーションしたものであって、実はアドベンチャーゲームと大きなちがいがある。それは「再挑戦」の必要がないという事だ。

 わかりやすいのは「マルチエンディング」というシステムだろう。これは元祖である「弟切草」がわかりやすい。「弟切草」は物語が様々に変化していき、ホラーの方向性が毎回変わっていくけど、これは人生ゲームやパワフルプロ野球のように、「こういう行動を起こしたらこうなった」という自分だけの他人とはちがうプレイ結果を楽しむものなんだ。だから正解のプレイもない。

 正解というものが「かまいたちの夜」あたりから生まれたけど、以前もいったように正解のルートだけ通るとあまりにもあっけないんだ。それはせんたくミスによる失敗を前提としてあのエンディングが用意されているから、初回から犯人を見つける事は想定されていない。ところが実際のプレイでは「いかにミスしないようにえらぶか」というプレイになってしまう。その結果、イヤな展開はあらかじめさける。挑戦しない。のりこえない。痛い目にあわないのが正しいこうりゃく法であるかのようになってしまった。

 そして、トゥルーエンドとはそういった正解のないノベルゲームに正解を作り、なおかつ悲劇も受け止めてハッピーエンド以外の物語をえがくためにできた。なぜ正解を作るのかというとプレイヤーに現状で満足させるのではなく、正しい道へと再挑戦させるためである。

 麻枝さんはわざと悲しい展開、イヤな選たくをさせるが、それは自ら痛い目にあう道をえらぶことで人を成長させようとする目的があるように思うんだ。悲しい事はさけてもやってくる。「失敗」を経験して、それを乗りこえるという展開。悲劇はバッドエンド(ペナルティ)のためでなくあえて受け止めて乗りこえることがテーマになっている。つまり、ファンタジーという現実とうひにうってつけの手法を使いながら、悲しい現実に立ち向かえというメッセージが見えかくれするんだな。

 そして、再挑戦の物語を作中のキャラが自覚すると、それはループものになる。AIRでは別のキャラに生まれ変わって、ただながめているだけ、一見すると挑戦しているようにはみえない。火の鳥のように定められた運命をただ見ているだけに見える。けれど「主人公→カラス→最後の少年」という風に視点が移動しているが、これは同じところをぐるぐると回っているのではなく、「なるとまき」のうず巻きのように少しずつ外へ回りながら外側からかつての自分をながめる構図になっているんだ。だから最後は登場人物が目的を達成してループからぬけ出したことがわかるようになっている。

 アドベンチャーゲームの物語を極めていくとループものになっていく。このAIRがそうであったようにKEYはループものをさらにほり下げていくことになるんだけど、それは次回だ。おーし、今日はここまで!解散だ!

*1:まぁ、ビューティフル・ドリーマー押井守さんはアヴァロンを見る限りウィザードリィのファンなのかもしれませんが、ウィザードリィは人生ゲームやパワプロと同じシミュレーションゲームです