民族

 セーラー服は民族衣装だろうか?

 こんな事を言うと、新年早々バカな事を言ってると呆れられているかもしれないが、私は大真面目である。例えば、好きな民族衣装は?という問いにチャイナドレスやアオザイが挙げられる事が多いが、そもそも民族衣装とは何だろうか?

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 上記のリンクには秦王朝から現代までの中国人女性の衣装が載っている。そしてチャイナドレスが比較的新しいものである事が分かる。私は、この資料は非常に信用できると思う。なぜならば、チャイナドレスというのは東洋の伝統的な装いには見えないからだ。例えば、昔の日本は中国のパクリをしながら発展していったはずだが、平安時代を見ても、江戸時代を見ても、チャイナドレス的な装いなんて無いのである。こちらでちょろっと話した事があるが、チャイナドレスはキトンを基にした非常に西洋的な価値観で作られた「ドレス」であって、着物ではない。

 そもそもチャイナドレスは歴史が浅い。これは農耕民族の漢人が狩猟民族の満州人に支配されていた清朝の時代の影響で出来たものであって、日本で言ったら明治時代ぐらいの産物である。カウボーイのファッションのようがよっぽど古く伝統的だと言える。とりわけ重要なのは清朝は漢字だけでなく、いろんな文字、文化が存在した王朝であり、チャイナドレスはおそらくウィグルあたりから西洋的価値観が入ってきた事や、寒い地方に住んでいた満州人の首を守るタートルネック的な装いが融合して生まれた衣装。つまり、異民族の影響で出来た衣装であるという事である。

 これは言い換えれば、海外の水平の服を基に作られたセーラー服も、海外の民族の服を基に作られたチャイナドレスも基本的には同一だという事である。だからチャイナドレスが民族衣装として挙がるのであれば、セーラー服も同列に挙がらないと理屈上はおかしいわけである。もっといえばゴスロリだって日本の民族衣装だという事になってしまう。

 この事は音楽にも言える。例えばロシアには民族音楽と呼べるものがほとんどない。あえて上がるのがポーリュシカ・ポーレ、コロブチカ、カチューシャなんかが上がるが、カチューシャなんかは1938年に出来た曲で昭和の時代の産物である。日本で言ったらリンゴの唄みたいなもんで、歌謡曲に入れるようなレベルの曲であって、伝統的な民謡とはちょっとというか、かなり違う。これを民族音楽として取り上げられるならば、日本の演歌やアニソンも民族音楽である。

 また、音楽の世界でガッカリさせられるのは、私のお気に入りのアーティストなんかが「私、実は民族音楽とか好きなんですよ」みたいな事を語る事である。しかも、日本人は好きなジャンルに民族音楽を挙げる事が多い。おそらく、クラシックやポップスばかりが音楽じゃないよ!アイヌエスキモーや、アフリカ人の音楽だって素晴らしいんだぜ!みたいな事が言いたいんだろうが、私から言わせればすべての音楽は民族音楽である。

 バッハやベートーヴェンがドイツ語圏の人である事から分かるように、オーケストラというのはゲルマンミュージックである。そのオーケストラ(クラシック)からコード進行などの理論を用いた上であえて反旗を翻した音楽であるロックはビートルズなんかを見れば分かるとおり、アングロサクソン音楽である。民族性と音楽性はある程度一致するというか、連動しているのである。

 オペラなんかは歌で物語を語り、これがディズニーやブロードウェイなんかのミュージカルに移っていくわけだが、これなんかは音と想いやストーリーを結び付けない人達にとってはかなり変に見えるはずだ。言ってしまえば未開の部族が天に向かって踊ったりしているのと同じように、これも非常に民族的な振る舞いであるはずなのだ。ところがミュージカルを民族音楽と言うと、顔をしかめられてしまうのだ。不思議な話だ。

 これらの違和感から、「私の考える民族」と「世間一般の民族」との間には何か大きな隔たりがあるように感じられた。なんというか民族には何か差別的なニュアンスが感じられるというか。私は民族性のような何かが確かにあるのを感じ、このブログでも一番人気のこの記事をはじめとして民族について色々と語ってきたが、それが言葉としては全然伝わっていなかったのではないかという危惧を感じた。これから先、日本や外国の文化を語る際に民族という言葉を使わないで語る事が出来るのか全く分からないが、少なくともアプローチを変えなければ誰も真実には気づいてくれないのだろう。