映画は濃い顔、テレビは薄い顔

 邦画といえば少し前まで「つまらない」の代名詞だった。*1なぜ、邦画がイマイチなのかというと、それは作り手の側が映画の特性を全く理解していないからだ。映画は映画館で見るものであって、DVDやテレビ放送前提で作ったら少なくとも映画館へ言ってみようという気にならない。巷でヒットしているものに恋愛モノが多いのはカップルがデートの行き先に選ぶことを想定して作られているからである。しかし、カップルなど日本の人口全体でみたらたかが知れており、それではヒット作は作れない。

 映画館といえば暗闇であり、そこで見る白黒映画が原点だ。このような環境では暗い中で映える顔というものが求められる。世界でヒットした日本映画を思い出してほしいが、ゴジラもクロサワも世界で通用した。昔から濃い顔が閉めている。それはおっさん顔こそ映画館で最も映える顔だからである。勝新太郎にしても三船敏郎にしても濃い顔だ。

 これは私の持論なのだが、それぞれのメディアには主人公にふさわしいキャストがあり、アニメでは髪の毛やおっぱいや「きゃーん」なポーズで動きをつけやすい美少女。マンガではコマに収まり、構図のどこにでも配置しやすく、表情豊かな少年。そして映画では影と存在で演技できるおっさんなのである。日本の邦画はこのことを無視して恋愛だの、劇場版だの、おふくろだの、少年時代だのやってしまっているからつまらない。ビートたけし松本人志みたいな映像のプロでもない芸人の映画が映画通にウケるのは、彼らのほうが映画がおっさんのものであるということを理解しているからだろう。

 こういった特性上、いわゆる弥生顔よりも田舎モノの縄文顔の方が映画においては好まれた。戦後のメディアではまず、映画が力を持った。その結果、これまでの日本と違い、濃い顔がスターの顔として認識されていった。映画スターが一番レベルが高く、世界に通用する人材というスタート。しかし、日本に多いのは薄口のしょうゆ顔、彼らはこの事態に黙っていたのだろうか?

 映画はテレビの台頭により、元気がなくなったとされる。これはただ単純にメディアの優劣の話ではなく、文化の攻防の話である。少なくとも日本では、テレビはアンチ映画として始まったのだと考えられる。それは昭和のテレビ番組の内容を考えれば分かる。例えば世界の黒澤明は一つのシーンを撮るのにすごくこだわり、アリの演技を撮るのに日が暮れるまで待っていたというエピソードがある。

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黒澤明 武勇伝 その(3)「アリの行列を作れ!」
八月の狂詩曲」ではアリの行列を人工的に作り出しています。この撮影のため呼び寄せられたのは、アリを研究する科学者とアリ3万匹。現場でもアリを行列させるために1週間以上が費やされ、その間待たされ続けた出演者のリチャード・ギアさんは、「もうアリとは共演しない」と言い残し帰国したそう。

 対してテレビのドラマは簡易な即席の舞台セット(片面が開いた部屋)があり、観客席にカメラを置いて撮っているかのようなコント方式の生放送ドラマから始まった。それは、電波放送の技術はあるが、何重にも撮れるような大量のテープはないといった低予算から始まらざるをえない状況からのスタートであった事を意味する。じっくり撮る映画と、ぱっぱと作るテレビ。短期な江戸っ子文化は普通に考えたらテレビへ向かっただろう。

【映画スター】 上品、高級、めったにあえない、寡黙、ワールドワイド、濃い
【テレビスター】 下品、お色気、過激な言動、庶民的、おしゃべり、身近な顔、薄い 

 おそらく世界で通用しない、売れない人間が日本国内で楽しむために作ったガラパゴス的な文化が日本のテレビのスタートラインなのだと考えられる。驚くべきなのはこのスタートラインが未だに続き、山田孝之オダギリジョー岡田准一のような俳優が濃い顔になってくると映画へ向かったり、ついこの前もテルマエ・ロマエのような濃い役者を揃えた作品が映画化されているのである。一方のテレビは吉本、ジャニーズ、AKB、韓流などを推しているわけで、これらの対比が何を意味しているかは大体察しがつく。

 もちろん、ここで語っている事はこじつけに近い。例えば黒澤明は高身長で、低身長であった縄文人とはかけ離れている。だが、例えばゴジラの音楽を担当した伊福部昭アイヌやギリヤーク(ニヴフ)に関して研究するなど明らかに北方民族と親しい関係にあり、そのゴジラ自体が荒ぶる神のイメージやキングシーサーを仲間にするなど縄文的な感性で出来ている作品である事など考えさせられる点が多い。

 最近はそうでもないが、日本人が外国に対して引け目や劣等感を持っているというのは日本に生きて居ればなんとなく肌で感じられる事である。私はこれらの外国びいきが戦後の教育によってもたらされたとは思っていない。それはもとから日本人の中に存在していた感覚なのである。

 つまり、日本人は弥生以後ワンパターンな民族しかいないと考えると日本史の人物達の行動が理解しにくくなる。日本人には少なくとも二つの政治的な流れがある。

 ひとつはアマテラスに代表されるような、ひきこもり的な性質を持ち、異民族を恐れ、太陽を崇拝し、農耕的で、女性がトップで、宗教的、中央集権的な文化、ヤマトの文化である。

 もうひとつはオオクニヌシスサノオに代表されるような、冒険的な性質を持ち、民族意識が薄く、未だ見ぬ海を越えた世界に憧れ、狩猟的で、男らしい男がトップで、英雄的、あちこちに分家的な仲間が存在する、日本的なのにヤマト的ではない文化――仮に出雲系とでも言おうか。

 日本では、このふたつの思想のぶつかり合いが歴史を作ってきたのである。

つづく

*1:最近は話題作が多くなったが、これは日本人(特に若者)が変わってきた事と、マンガやアニメの方法論を流用しまくってるからだろうと考えている。