言葉の無力さ

前提:震災後のゲーム - 鈴木君の海、その中

昨日の補足。

 例えば震災の講演会というものを開いたとしても、興味・関心のある人しか来ない事が多い。つらい事は思い出したくないという現実逃避したい人やそもそも海外に住んでいて対岸の火事状態だったりして、本当に伝えたい人、意識を持ってほしい相手に対して効果がないという問題がある。

 それだけでなく、言葉というのは本人の意向とは異なった受け取り方をされる事だってある。例えば「ダイエットは大事だ!痩せる事は大切なんだ!」みたいなフレーズは骨みたいにガリガリな拒食症の人には「私はまだ太っている。もっと痩せなきゃ」と追い詰める一方で、ぽっちゃり系の人には「私はまだそんなに太っていないから大丈夫」と大して響いていない場合が多い。中には太っていても既に周りから言われまくって気にはしているがなかなか行動に移せない人だっているかもしれない。つまり、言葉に何かを変える力なんてないのだ。

 しかし、言葉を発した側はそういう相手がしゅんとなったのを見て、改心した、変わった!と思って満足してしまう。実際は何も現状が変わっていないのに、早く伝えて早く結果が得られれば満足というのが言葉の世界なのである。

 言葉で語らない作品には、そういう押しつけがましさや、客を選ぶという事が少なくなる。その上で「大切な最愛の人をなくしてしまったらどうするか?」「ボロボロに壊されたところから一体何をはじめるのか?」という震災と同じ状況をさり気なくいれてみる。それを見ている側は気づくかもしれないし、娯楽作品にはよくある光景だと思って気づかないかもしれない。けれどどっちだっていい。ここで俺だったらこうする!きっと今、このキャラクターはこんな気持ちなんだろうな、と考える事は実は震災について考えている事と同じなのである。震災という言葉を使わずに震災について考えてもらう。これが言葉で言わないことの強みなのである。

 こんな文字情報ばかりのブログが何を馬鹿げた事を言っているんだとツッコミが入りそうだが、私はこのブログを始めた当初から、誰よりもまともで常識的な価値観を武器にしようと思っているので、変に気取った文体や耳障りだけいい言葉で勝負するつもりはないのである。だから既に知っている人やわかっている人には「なんで今更こんな事言ってるの?」と呆れられているような本当に基本的で一般的な事しか話していないつもりである。当然そんな文章は全くバリューが無いわけだが、まぁ、ネットという無料で利用できる空間の文章というのはバリューがなくてもかまわないと思う。文句あるか。