知識

 私が大学へ通っていた頃「三すくみ」という言葉を知らなかった。とある人間関係を「A子はB男に強く、C子はA子に強く、B男はC子に強いというじゃんけんの関係が成り立つな」と表現したところ、「三すくみも知らねーのか」とバカにされた事がある。まぁ、確かに言葉の意味を知った今ならそちらの方が少ない言葉数で表現できるから、スムーズに相手に伝わるという事も分かる。

 けれども、私は考えるのである。例えば小学生に説明する時、「三すくみ」という言葉を相手が知らなかったら「何それ?」という質問がかえってくる可能性が高い。ここで「三すくみとは〜」と言葉で説明しなおしたり、あるいは「とりあえずググレ」と言ったとしても、説明したり検索する手間というものがかかるのである。スムーズにするためのものがかえってスムーズさをなくしてしまうのである。

 「今でしょ」の林修は結婚相手を決める時に相手の日本語が重要だったそうで、「何それ?」といちいち訊かれるのが嫌だったらしい。東大生同士の会話はレベルが高すぎて、次に相手が何を言おうとしているのか推察して二言目には結論を先に出したり、難しい言葉も「知ってて当然でしょ?」みたいなのが多いらしい。

 たしかにそれで会話はスムーズになるのだろうが、疲れたりしないのだろうか?今の言葉はこういう意味だなとか、相手の知識に合わせたりとか、そういうことにパワーを使う事で、会話の内容とか議論に気が回らなくならないだろうか。さらに言えばそういう共通の言葉を知っている人の間でしか会話ができなくなるので、多くの人の意見を聞く事もできなくなるという縛りになってしまう。

 このブログを見返して気づいた事は、ものすごくクドい表現ばっかり使っているなぁという事だった。私の本質は何も変わっておらず、上記の東大生のような「知ってて当然でしょ」を前提にスムーズな文章を作るのではなく、下手な言葉でもひとつひとつ積み上げていくという遠回りばかりしている。コンクリートで家を作るのじゃなく、その辺から木を拾ってきているみたいなもんである。

 ここら辺のバランスは非常に難しい。あんまり細かく説明しすぎると、文章が長くなって読むのが大変になってしまうし、省略しすぎるとひとりよがりになってしまう。実はこのブログのいくつかの連載は自分の頭の中の4分の一ぐらいしか表現できていない。省略を前提とすればひょっとするとそろそろ完結していてもおかしくないものもあるだろう。ただ、インターネットはそもそも何なのか?を考えたときに不特定多数の相手に伝えるものだという結論に達したので、面倒でもひとりよがりな文章は避けているつもりである。

 世の中のインテリにとっては「バカには理解できない事を知っているオレ頭いい!」みたいな風潮だけど、それって本当に賢い事か?という疑問がある。知識という点と知恵という線は別物なんじゃないだろうかという、上手く言葉にはできないが漠然とした思いがあって、私は別に今のままでも生活に困らないからいいやと、投げやりな結論で終わりにする。