ドラクエ11感想【ネタバレ回避版】

 待ちに待っていたドラゴンクエスト11なのだが、悪〜い予感はほぼほぼ的中した一方で、驚いたところや感動したところはネタバレに触れるというなんとも語りにくいソフトになってしまった。

 ドラクエ11ってものすごくハイコンテクストなゲームだ。桃太郎じゃなくてかぐや姫竹取物語)みたいな感じ。

 桃太郎は「ロー」な物語だ。そのまんまハリウッド映画化できる。例えば犬とかサルはきびだんごで仲間になるわけだけど、物で仲間を作るっていうのはどの文化でも理解できる方法。例えば「いや桃太郎さん、私は正義のために戦うんです!物は要りません」みたいなキャラだったらなぜそういうキャラになったのか動機や背景を描かなければいけない。それを省略できるわけだ。化け物退治とか、――感動できるかどうかは別として、わかりやすいし、どの時代、どの文化でも等しく理解できる。

 一方で、かぐや姫は「ハイ」だ。「不老不死の薬を捨てたらから富士山」というのは、「富士山という地名を知っていて」「富士(ふじ)と不死(ふし)をかけている日本語(ダジャレ)の素養が必要」だったりする。物語全体も「通い婚が当たり前で女性に選択権がなかった時代」ということを知らないと、ただ単に女に振り回されるだけのお話で、何が言いたいのか分からない荒唐無稽な話に見えてしまう。こういった「ハイ」なものは同じ語族とか文化を持った人達に向けて語っているので、当たり前の事はいちいち語らない。わかる人にはわかるが、分からない人にはわからない話になってしまう。仮にハリウッドのような「ロー」な物語にした場合原作のよさはなくなってしまうのだ。

 話をドラクエに戻すと、どうも古参ファンに媚びてる感があって個人的にそれはいらないなぁと思った。特定ファンを想定しすぎ。例えば自分は「最後のカギ」の存在を知っていたからとある演出がフェイクである事に気づけたが、はじめてドラクエを遊んだ人には、おそらく気がつかずスルーした人も多いだろう。このゲーム最後の方に近づくにつれて面白くなっていくのだけど、最初はあっさりしすぎなので、最初の方でプレイヤーがやめたりつまずいたりしたら、もったいないんだよなぁと思ってしまう。

 もちろん、外食チェーンがスシローばっかりになったらそれはそれで嫌なわけで、中には食通が通うような高級料亭みたいな店があってもいいのだ。ただそういうお店も食べ物がおいしいから人気なわけで、頑固親父が作ったとか、一見さんお断りなところが評価されているわけではないので、そういう色は感じさせないでほしいんだよなぁと思ってしまう。何というか庶民向けのスシローが気がつけば老舗になって高級料亭みたいな貫禄をつけたみたいな話で、悪いわけではないけど、なんだかさみしさを感じてしまうなぁ。

 こうなった理由ってのはだいたい予想できる。私もそうだが、ほとんどの人はドラゴンクエストの立ち位置を誤解していたのかもしれない。日本では、ゼルダが切り開き、ドラクエがスタンダードを作り、FFがニッチなところをねらうという図式だが、今のマーケットは世界を対象にしている。世界を視野に入れると、FFが切り開き、ゼルダがスタンダードを作り、テイルズとかその他のRPGがニッチなところを狙っており、ドラクエは「何それおいしいの?」状態なのである。おそらくドラクエはこの3つの立ち位置の中でニッチなところをねらいに行ったんだろうなと思う。

 で、その選択自体はそんなに間違っていないと思う。そのニッチさの中で特に光り輝いていたのは「非キリスト」という部分だったりする。

 テトリスと肩を並べられる日本ゲームはポケモンぐらいだろうと思っているのだけど、そのポケモンのプレイ人口=今のゲーム市場と考えてもいいんじゃないだろうか。すると見えてくるのがものすごい偏りである。以前に私が気づいた事だがポケモンの交換のしやすさは地域差が大きい。一言で言えば世界でゲームをやりまくっているのは日本を除けばほぼキリスト教なのである。

 だいたいユーザーの中からクリエイターというのは生まれる事が多いわけで、つまり世界のゲームはかなりの割合でキリスト教の色に染まってしまっているのである。むろん、これは世界と歩調を合わせようとする日本のゲームも同じである。

 暴力的なゲームとか、任天堂のゲームはキリスト教色じゃないでしょ?と思うかもしれないが、人は関心が高いものには「それしか語らない」「反発する」「あえて語らない」の3つの行動をとる。一方で関心が無い場合は対象のことを「気にしない」。暴力的なゲームはキリスト教に対する「反発」、任天堂のゲームは「語らない」という遊戯王TCGみたいなキリスト教が考えるレーティングに配慮した価値観で作っているのである。そして不運な事にゼルダもFFもポケモンも海外で人気が高いが故に海外のスタッフを使い、それによってシリーズが進むごとにキリスト教に対する「配慮」が生まれてしまってそちら側に流されてしまっているわけなのである。

 が、ドラクエは違う。スタッフロールを見て気づいたのだが、ドラクエは未だにそのほとんどを日本人が作っているのである。先進国(とは何なのか未だにわからんが)の中で唯一と言っていいほどキリスト教の影響が少ない日本が、だ。だからこのゲームには「キリスト教」の匂いがほとんどしない。かつては中世を描き、十字の教会を描き、7〜9ではキリスト教モチーフを使いまくったドラクエが今作ではそのキリスト教色を消し去っているのである。正直ビックリした。けど、世界をマーケットにしたときこれは強みになるはずだ。

 例えばオネエ大活躍なのである。キリスト教ではいわゆるオカマ(ゲイ)が嫌われる。キリスト教の神(イエス)ってざっくり言うと「子供」の事で、「聖母から生まれた子供が古い父親を改革して神になる」というのがキリスト教の教義と考えてもらって構わない。で、もともと聖書では男の精子は女の子宮に注ぎ込むべきものと考えているわけで、それをしなかったオナンは犯罪者になっている。このオナンはオナニー(ひとりえっち)の語源になっていたりする。

 だからキリスト教徒からすると、リアル女に興味がない童貞野郎も、ゲイも、ペドフィリアも「子供を作ろうとしない」時点で犯罪者であるのと同じなのだ。日本人はそこまで子作りに関心が高くないというか、子供を作ることは目的ではなく、結果にすぎないのである。少なくともエロ本がコンビニで売られ、性風俗が盛んで、BL本だとかAVだとか、援助交際だとかが流行るような国はキリスト教の価値観で動いてはいないのである。海外ではキリスト教原理主義による中絶医師へのテロが起きているが、これがわかりやすい文化差である。日本では強姦や望まぬ子供を産ませるくらいならば、性サービスとか避妊を行うべきだと考える(精子は捨てていいと思っている)一方で、キリスト教文化では、子供は神様と同じ属性を持っているので、親がどんなやつだろうと子供は神聖で守らなければいけない!となる。これはどちらが正しいという話ではないが、お互いに相手の文化を野蛮だと思っているわけである。

 ドラクエ11はCERO:Aのゲームなので、別に同性愛的な表現があるわけではない。ただオネエがヒーローとして描かれ、世界を救うとか言っちゃうゲームなのである。こういうの日本じゃないと作れないよなぁ。海外にもオネエはいる。けど、海外だったら多分「反キリスト」的な表現になる。オカマを「弱者」とか「不良」とか「悪」みたいなマイナスからスタートしてゼロになって物語は終わるみたいなものになる。それは「オネエであることが犯罪」という価値観だからそうなる。日本でもオネエの風当たりは強いかもしれないけど、悪人や罪人ではない、ただちょっと「変わった人」だ。だからマツコデラックスみたいなキャラが人気が出たりするのを見れば分かる通り、別にそういうやつがいたっていいっていう文化だ。

 日本人はキリスト教徒じゃないのにクリスマスをする。けどそういう事を「気にしない」という非キリストの文化だからこそ描けるものもたくさんあるんだよなぁ。と、そろそろネタバレに踏み込まないと話が出来なくなってきたので、切り上げる事にする。

 なんか誤解を与えるような文章かもしれないけど、面白いゲームには間違いないのである。ここ数年のスクエニは「あの頃僕らは夢中だった」みたいな「バブルよもう一度」的な宣伝をあちこちでしていて冷めていたので、あんまり期待していなかったけれども、ドラクエ11は後半の展開がアツい。「燃える」というより「心震える」というか。ゲームをしていてこんな感覚に陥ったのは初代MOTHERとFF7の時以来だと思う。自分の中でドラクエ最高傑作は5かと思っていたんだけどそれも改めようかなと思っている。それぐらいすごいゲームである。