シン・ゴジラ批評

前提:シン・ゴジラ感想 - 鈴木君の海、その中

 もう関わりたくないと言っておきながら、まだ少し語らせてもらいたい。視聴後の印象を早く残したいばかりに、かなり汚い文章になってしまって、よその人と内容がカブってしまい、かえって作品を見ずに語っていた頃の方が独創的かつ的を射ていたような気がする。そこで、冷静になってシン・ゴジラに対しての印象をもう一度別の表現で語ろうと思う。

 作品の評価には二つ軸があって、「好き嫌い」と「良い悪い」だ。後者は「前半面白く、後半が雑」と表現したようにプラマイゼロ。100点満点で言えば、50点で、60点ぐらいが個人的な合格ラインなので、駄作か良作か訊かれたら駄作と答えるというレベルなのである。……とは言っても、ゴジラファンの私ですら、ゴジラシリーズは駄作が多いのを承知なわけで、シンゴジラがシリーズで一番酷い出来だとは思っていない。それでもシン・ゴジラに対する文章が辛辣になってしまうのは好き嫌いでいうと嫌いな作品になってしまうからだ。

 なぜ嫌いなのかというと感性が違う*1――もっというと宗派が違うというところにたどり着く。庵野秀明と自分との差って何だろうと考えた時「人間」というものの存在に違いがある。庵野作品において人間っていうのは地球上の支配者であり、究極の進化形態というところにいきつく。これはエヴァでカヲルくんが、「やはりこの世界で生きるためにはリリンの姿が適当だと判断したか」みたいな事を綾波に言うシーンとかに出ている。

 つまりさ、私が疑問に思った。ガヴァドンゴジラとか寄生獣ゴジラとか、あるいは進化という単語は、2001年宇宙の旅でサルがモノリスにであって、ヒトになりましたーみたいなアレをゴジラという姿を借りて表現していると考えるのが自然。進化という単語は本来イーブイが複数の姿に「分化」するという意味でだからこそ進化(エヴォリューション)の頭文字イーブイポケモンの名前になっている。イーブイこそ進化ポケモンと呼べる存在。だから進化はパワーアップの用語じゃなくて、時には退化を意味する言葉である。だけど一般的にはヒトカゲからリザードリザードンみたいなより強い形態になっていくことを進化だと思われている。つまり、人類ってのはサルよりも進化した存在だ!みたいな変な使われ方をしてしまう。

 で、そういうヒトカゲとか2001年〜のサル的進化をシン・ゴジラは行う。それは生命の歴史を連ねていくのである。生命はまず海から生まれ、海のキラーであるサメの祖先ラブカをモデルとした姿から、やがて両生類的な水中から陸へと上がる個体が生まれ、恐竜という大地の支配者が現れ、最終的には機械的(おそらく原発の擬人化ならぬ擬獣化)な姿になる。そしてラストシーンでは実はその機械を構成していたのは無数の人間だった。というこの地球上でもっとも恐ろしいのは人間だという結論である。このことはシン・ゴジラの目が人間の目であらわされるように、この作品のテーマとして人間がもっとも上位に位置しており、人間のドラマこそがメインなのである。だから、このゴジラの形態進化とかこの作品のノリについていけた人達というのは後半に行けば行くほど人間の力をまざまざと見せつけられる展開になるので、そこで共感を得ていったのであろう。むろん、怪獣映画で本当におそろしいのは怪獣ではない、人間だ!というのはお決まりのテーマであり、この映画に限った話ではない。

 私の持っている人間観は「ちっぽけで、愚かで、大した事ないのに勘違いしている存在」なのである。私が怪獣がなぜ好きなのかというとドデカいからである。画で見ただけで、人間のちっぽけさを思い知らされる。自然とか太古の存在とか異空間とか宇宙とかそういう人間の範囲を超えた何かよくわからないけどすごいものが怪獣なのであって、人間にコントロールできる範囲のモンスターは怪獣とは呼びたくない人間なのである。

 この作品は私の嫌いな3.11なる単語とともに語られる事が多いが、私の記憶ではもっとも死者を出したのは津波による被害であったはずだ。つまり自然災害によって亡くなった数の方が圧倒的であり、一方で、人災と言われる原発事故により亡くなった人間はゼロであったはずだ。近づけなくなった、故郷を奪われた人達がいるのは知っているが、被爆したヒトがいると言う話は聞いた事がないし、そんな人がいればマスコミが黙っていないはずだ。仮に報道規制が敷かれていたとしても、隠せるぐらいの人数だけであり、良くない遺産は残したわけだが、死者や病人を増やすような最悪の事態だけは回避していたとも言える。

 だからこそ津波の擬人化であるガヴァドンゴジラは不気味だし、恐ろしく感じるのである。前後して、震災を思い返させるアングル、演出(テレビなど)をされるので、完全に嫌な見たくないものを見てしまった感がとても強くあらわれるのである。あれはかわいいとか言ってペットみたいに扱っていい存在ではない。あれはもっと畏敬を持って対応しなければならない相手で、現代の神であると言っても過言ではない。一方の暴走原発の擬人化くんである第四だか第五くんだが、彼の元ネタは死者を出していないので私個人には全く心当たりがなく、前半部に感じたフラッシュバックが起きない。それゆえにリアリティを感じないのである。むしろ最後の方で電車の爆弾にひっかかったり、凍結剤をおとなしく飲んでいるくらいなのだから、後半のゴジラの方がかわいいと思ってしまったりする。

 とはいえ、私のような意見や感性が少数派であることは重々承知している。だって、そもそも怪獣映画はある時期からめっきり作られなくなって、ロボットとか萌えとかは飽きるくらい作られているのに、怪獣オタクはあっさり怪獣オタクを止めてブームというよりジャンル自体が消えかけているのだから。上座部仏教がどんなに自分たちの方が正しい仏教を伝えていると主張したって、世界に広まっているのは大乗仏教なのだ。人口の多い中国人が大乗仏教で、聖典をたくさんもっているチベット仏教ラマ教)が大乗仏教なのだ。少数派はただ黙って自分の信仰を貫くしかない。私はあの震災で、自然は人間の手に負えず、管理や支配できるものではないと思ったが、世の中はそうじゃない。なんせ地球温暖化が問題になり、人が自然を壊している、人間は自然より強者だ。だから、自然を守り、管理していかなければいけないという考え方が世界の主流なのだ。事実CO2を出しまくっているのは人間なのだから、人間最強説が蔓延したとしても不思議ではない。むしろそちらの方が彼らにはリアルなのだろう。

 世界がビッグバンか神の創造で出来たのか確かめる術はない。それと同じように人が究極の形態かどうか確かめる術もない。ようは宗派が違うからだ。宗派の違う人間同士は絶対にわかり合えない。幸福の科学とか、創価学会とかアレフが作った映画を見て、私は違和感を感じたり、感動できないなぁと思ったりする。けれど、これらの映画はある人にとっては救いでもあるのだ。誰かの救いになるような作品は別に悪い作品ではないので、否定できない。一方で自分はそういう作品を見ても救われないし、気持ち悪いと思っているので見ない。これが私がこの作品に関わりたくないと言った理由である

*1:他人なので当たり前だが