音響監督【ゴジラ1954】


1993年 ゴジラVSメカゴジラ レコーディングライブ 1/3

 

 2作目「ゴジラの逆襲」は1作目の半年後に作られた。そのためスタッフはほとんど同じだった。にも関わらず評判は1作目ほどよくなかった。1作目と2作目の違いは本編監督の「本多猪四郎」と今回紹介する「音楽」を担当した「伊福部昭(いふくべあきら)」がいない事が関連していそうである。

 

 伊福部昭の魅力は引用した動画を見れば分かる。伊福部は実際の映画スクリーンを映して、それに合わせて演奏を行う。つまり、指揮者である自分がテンポを作るのではなく、映画のテンポに合わせて曲を演奏するというスタイルを取っている。当たり前ではあるが、映画音楽は映像ありきの音楽であるわけで、映像を主体に置いている。先に楽曲だけ作って監督にポイと渡すという形ではない。伊福部自体がまたひとつの「監督」でもあるのだ。

 


Évolution de la musique de maestro Akira IFUKUBE

 

 伊福部昭は編曲の天才である。伊福部昭の曲のバリエーションはメロディのみで考えると実は多くない。ものすごく「使い回し」の多い作曲家なのである。おなじみの「伊福部マーチ」もゴジラが初出ではなく、もともとは自衛隊用の楽曲が「フリゲートマーチ」になり、「宇宙大戦争マーチ」「怪獣大戦争マーチ」になっていった。場合によっては軍隊とは関係ない楽曲にも似たようなフレーズが使われていたりする。

 

 では、それら「使い回し」の楽曲はどれも同じなのかというとそれは違う。楽器の編成から、フレーズの構成、音の強さなどその楽曲が使われる場面に合わせて「編曲」されているのである。ひとつひとつの場面に合わせて作られているため、すべての演奏はオンリーワンであり、そこで使われる事に意味がある。今作のフリゲートマーチも恵美子を見送る場面で使われたものと、芹沢が決心した時では微妙に違う。後年のゴジラ映画でありがちな過去作で使った軽すぎる録音音楽を垂れ流すという行為は、伊福部の音楽性からはかけ離れているのである。

 

 こういった伊福部の方向性は、彼が「律動(リズム)」を重要した事に由来する。音楽の3要素といえば、「メロディ」「ハーモニー」「リズム」だが、伊福部は音楽の歴史を研究した結果、人は「リズム」→「メロディ」→「ハーモニー」の順に音を開発していった事、動物や昆虫ですらハーモニー、メロディを奏でる事はできるが、リズム感という高度なものを持っているのは人間のみである事など、リズムこそが音楽の本質であると考えた。現在の王道進行だとか小室進行だとか言っているJ-POP界とは根本的に違う。

 

 伊福部は「低俗」という価値観の反逆者でもある。ゲーテの「真の教養とは、再び取り戻された純真さに他ならない」、アンドレ・ジイドの「定評のあるもの、または、既に吟味し尽したものより外、美を認めようとしない人を、私は軽蔑する」などの発言を引用したり、「お地蔵さんの頭に鳥が糞をした跡を美しいと思う感性」だとか「脇の下をプップ鳴らした音に興味を持った幼少期の大作曲家」の話とか、「そばつゆは先にだけつけるのが正しく、べちゃべちゃ全部つけるのは邪道と言っていたそば通が、死の間際に一度でいいから充分に浸して食べたかったと話した」事を引用しており、彼はインテリ層が嫌うような「低俗」にこそ本質があるという趣旨の事を言い続けている。

 

 そんな彼だからこそ「ゴジラ」の音楽を担当できたのかもしれない。当時、この手の怪奇映画、化け物映画というのは低俗だと思われており、そんな作品の音楽を担当したら音楽家として終わってしまうみたいな風潮があったらしい。

 

 ゴジラの足音や鳴き声も伊福部昭が生み出したものである。特に鳴き声はゴジラにかかせないものだが、コントラバスの弦を特殊な方法で擦って出すという低俗かつ邪道な音の出し方である。伊福部がいなかったら今のゴジラはいなかったと言っても過言ではない。

 

 そんな低俗の極みであったはずのゴジラが、気がつけばインテリ層がドヤァするための作品になってしまった事に対して、真のゴジラファンは複雑な感情を持ってしまう。

 

 なお余談だが、本作のメインタイトルで使われているテーマは、今作において自衛隊出動シーンや消防車に使われているようにゴジラに立ち向かうテーマであって、破壊者ゴジラのテーマではない。このテーマがゴジラと結びつくのはゴジラが他の怪獣と戦う頃で正義の味方としてのテーマ曲だったりする。破壊神ゴジラのテーマはシンゴジラでも使われてる東京湾上陸時の音楽で、これが後のキンゴジとかでもアレンジされながら使われている。