動物たちが意味するもの【ゴジラ1954】

 初代ゴジラは非常に上品な作品である。特に映像はメタファーを巧みに使う事によって深く、それでいて押しつけがましくない作品になっている。注目してほしいのは「動物」の表現である。

 

 初代ゴジラに出てくる動物は人、ゴジラ、鳥、魚である。観客が喜ぶからと言って犬や猫を無闇に出したりしない。「ゴジラ」と「人」は仕方ないとしても、なぜ「鳥」や「魚」が出てくるのだろうか?

 

 まず、「鳥」は「ゴジラ」と対比されている。ゴジラは「水爆を食らった恐竜」なのだが、鳥は恐竜の子孫と言われており、ようするにゴジラが祖先で、鳥が子孫という構図ができあがっている。そしてゴジラと鳥が同時に映るカットでは、鳥は「鳥かごの中」、ゴジラはその背後で「巨大な姿」で映される。これは直訳すると、「我々がバカにしている存在は大昔はこんなに恐ろしい生き物だったんだ」という事になる。

 

 が、別にこの映画はヒッチコックのように「鳥怖い」が描きたくてそういう対比を使っているのではない。初代ゴジラのメインストーリーを見れば、「戦後」と「戦前」という対立軸がある事にきづく。つまり、太古の昔から大日本帝国まで続いてきた「ご先祖様」が「ゴジラ」であり、戦後に生きる現代日本人は「鳥」なのである。かつての大暴れしていた存在と、「アメリカという鳥かご」の中で身動きのできなくなった子孫という対比がここに重ねられているのである。

 

 鳥かごの鳥が登場するシーンは、「尾形と恵美子のシーン」――父親である山根と上手くコミュニケーションが取れない2人、もうひとつは「あの世へ行ったお父ちゃまの元へ向かうのよ」と全てを諦めた親子のシーン――深読みすると「お父ちゃま」にはゴジラも含まれているのだろう。鳥は地獄から蘇ったご先祖様に怯える民衆達の暗喩なのである。

 

 このような構図がある以上、年老いた山根博士が「ゴジラ側」に傾くのも自然になる。彼は自室にステゴサウルスの模型を置いているが、「戦後」になじめない彼は、誰よりも「ゴジラを理解する事が何より最優先だ」と考えているのである。彼からすると「相手の言い分を聞かず」抹殺するというのは腹立たしい事なのである。

 

 さて、ではもうひとつの動物である「魚」は何を意味しているのだろうか?「魚」が映っているシーンにはある登場人物がいつもいる。「芹沢博士」だ。芹沢の研究室には巨大な水槽があり、そこで芹沢は「オキシジェンデストロイヤー」の実験を行っていた。何の罪もない、「その辺にいる魚」で、だ。

 

 そして、最後のゴジラを葬るシーン。その直前に「海を泳ぐ魚のシーン」が挿入される。民衆の誰も、下手すると我々観客すらも意識する事の無い「取るに足らない存在」。けれど、それは確実にそこに存在した「犠牲者」である。オキシジェンデストロイヤーは液体中の酸素を一瞬で破壊しその中の生物を窒息させる働きがある。つまり、エンディングで死んだのはゴジラと芹沢だけではない。東京湾にいた魚も貝もエビも、ひょっとすると紛れ込んだタマちゃんみたいな存在も死んでいたかもしれない。

 

 その光景を芹沢だけが知っていた。何度も実験をして、その恐ろしさを目の当たりにしていた彼は、当然これを使えば東京湾がどのような事になるか想像できていたのである。だから彼はこんな恐ろしい兵器が二度と使われないように完全に封印した。その事を民衆は知らない。兵器の恐ろしさを芹沢が隠していたからだ。「この感激!この喜び!ついに勝ちました!」と言ってしまえる彼らには、ゴジラの死だけが映っており芹沢と魚たちの死は見えていない。

 

 鳥、ゴジラ、魚――全部「日本人」の暗喩となっている。だが、最後の山根博士の一言によって、「核実験が続けばあなたの国も他人事ではありませんよ」とワールドワイドなオチがついているのである。本当にすごい作品だ。

 

 ちなみに、こういった映像演出は2作目「ゴジラの逆襲」ではなくなってしまっている。おそらく原作改変した本多猪四郎の演出ではないかと思っている。