初代ゴジラとシン・ゴジラの違い

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 長々と初代ゴジラについて語ってきたが、そもそもの発端はシンゴジラのファンによる、シンゴジラは「初代ゴジラの再現」であり、パチモンの「ハリウッドゴジラとは別物」という「正統な後継者」であるという論調に対抗して書こうと思ったのがきっかけである。これまでまとめた事からシンゴジラは本当に初代ゴジラと同じ存在なのか考えてみたい。

 

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 まずゴジラは神なのか?私の答えは「ノー」だ。ゴジラが神だという根拠に「ゴジラ英霊説」がある。だが、この「英霊」というもの自体が特殊なのである。

日露戦争以降、特に国に殉じた人々、靖国神社護国神社に祀られている戦没将兵の「忠魂」・「忠霊」と称されていたものを指して使われ始めた [2]。政治的、思想的な論争の対象となることがある(詳細は靖国神社問題を参照)。

Wikipedia英霊」より引用)

 

  まず、御霊信仰というものがあるので「死者が神になる」という事は不思議な事じゃない。だが、そもそも祟り神になる存在は元々の地位が高い、「高貴な者」である必要がある。例えば、首塚で有名な「平将門」は桓武天皇の子孫であり、元々「神の子」なのである。その辺の犬猫や下級武士、町人や農民をいくら斬り殺そうがそれらは怨霊になったり祀られたりする事はない。唯一の例外は「靖国神社」である。靖国神社は高貴な生まれでなくても「国に貢献して死んだ霊」が祀られた。坂本龍馬なんかも祀られているらしい。

 

 さて、では上記の前提知識を持ってゴジラは神と呼べるのだろうか?まず初代ゴジラはメインストーリー的に戦前を担っているので、そういう読み取り方もできる。だが、シンゴジラはそうではない。シンゴジラのテーマには戦前、戦後というテーマがなく、東日本大震災を下敷きにされているため「英霊」という表現がない。一部で言われているのが「牧悟郎=ゴジラ説」だ。

 

放射線病で最愛の妻を失っており、妻を殺した放射能放射能を生み出した人類、そして妻を見殺しにした日本という国家を憎んでいたとされ、やがて学会から半ば追放される形で日本を離れ単身渡米した。

pixiv百科事典より引用)

 

 さきほど述べたように、英霊とは「国のために死んだ人達」の事であって、「国に恨みを持っている人」ではない。平将門のような例もあるが、こちらも先ほど述べたように「元々の地位が高貴」なのである。つまり「単なる科学者」が「国に恨みを持って」東京を襲っても、それは神として祀られる事はない。前例と違うからだ。

 

 原作者が関わった「ゴジラ」「ゴジラの逆襲」の「香山ゴジラ」では、ゴジラは神ではなく「生物」として描かれている。暗い深海で生きていたゴジラは眠りを妨げた「原水爆ピカドン)」のように「ピカピカ光るもの」に敵意を持っている。だからゴジラは人工の光が多くなる夜中に行動を開始した。その怒りの原因を知ろうともせず、自分たちだけ幸せになりたいという民衆は街をピカピカにし、その結果火の海と化す。カメラのフラッシュを焚きまくった事でテレビ塔も破壊される。なお、シリーズを見るとゴジラは人口の多い都市から襲っている。人口が多く発展している「都市」が一番ピカピカしているからだ。

 

 一方のシンゴジラは真っ昼間に堂々と現れる。もちろん東日本大震災の被害は午後3時前後に広がっていったのだから、それをモデルにするならば昼に現れる必要があるのだが、いずれにしろ初代ゴジラとは別の生き物である事が分かる。登場した理由が明確でどうすれば怒りを回避できるか分かる初代ゴジラと違って、シンゴジラは何故東京に現れたのか不明なので、本当に対策のしようが無い。怒りの原因が分からないので、「しずまりたまえ」という古来の神への対応もできない。

 

 なお日本人にはジブリアニメの「乙事主」「饒速水小白主」などのように自然の擬人化としての神の描き方もある。原作改変の張本人である本多猪四郎の持つ怪獣観も似たようなもので、この傾向は「プロレスゴジラ」の時代により強くなっていく。シンゴジラも前半部分は「天災的」に描かれるので、この意味で神だが、後半は自然ではなく、庵野の世界観である「人間スゴイ」が前面に出ているので、そういう古来の神でもなくなった。

 

ゴジラ」の描写だけが気になるわけじゃない。俳優の演技についても思うところがある。初代ゴジラでは志村喬のように本物の演技ができる人間がいた。もし、手元にビデオがあるならば確認してほしいが、彼の最後の言葉、

 

「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかへあらわれてくるかもしれない」

 

は、早口でかっこつけて言われるわけじゃない。間を作りながら、感情を込めながら、それが台本ではなく、本当にその場で生まれた言葉のように語られる。岡田斗司夫は日本の役者は演技ができないから「早いカット割で演技の幅を狭くした」みたいな事を言っていたが、これが本当だとしたら失礼な話である。そんな作品が日本アカデミー賞に選ばれた事に映画界は何かを感じなければいけないだろう。

 

 また「世界のどこかへあらわれてくるかもしれない」とあるように、ワールドワイドな話であって、シン・ゴジラのような「日本人にだけわかればいい」というような狭い作品ではない。

 

 そもそも俳優が演じるキャラクターも感情移入できない存在だ。ゴジラの主人公尾形はあんまりエリートに見えないが、シンゴジラの主人公はエリートである。岡田斗司夫曰く、大物政治家にとって子供ができなくなる事は一族の存亡に関わる話で、そんな中「二世である主人公が放射能の中へ立ち向かう話だ」みたいな事らしい。いや、放射能の恐怖に怯えるのは民衆も同じだろ、なぜそれを描かない?という事が気になる。初代ゴジラは「少年」「戦前を忘れたい若者」「一人苦悩する科学者」「ゴジラに理解を持つ生物学者」「決死のアナウンサー」「全てを諦めた親子」などあらゆる人間を描いている

 

 シンゴジラの登場人物はまるでAIのようなこんな状況になったらこういう機械的な動きをして、こういう学習で知能を上げていくみたいなしょうもないシミュレーション(妄想含む)をやってくれる。エリート主人公をかっこよく描いておいて、「老人学者は否定的」「避難が遅れて自衛隊の攻撃をストップさせるバカ」「民衆はゴジラを神といってデモを起こす」など観客側のキャラクターはとことんコケにする。日本人俳優は演技が下手で、民衆はバカしかいないという思想の映画を見て「日本万歳!」みたいに捉える人がいる事が不思議でならない。

 

  ちなみに「オキシジェンデスロイヤー」での決着は初代では悪い結末として終わっている。それは「相手の言い分を聞かず」「兵器の力で見せかけの平和」を作る事に対する怒りが根底にある。ところがシンゴジラでは「無人在来線爆弾」とか「血液凍結剤」のような恐ろしい兵器を肯定しまくっている。ゴジラの扱いも「水爆の被害者」ではなく、「人類が倒さなければならないモンスター」になっている。なのでテーマが別物である。

 

  また演出面で見ていきたいが、着ぐるみのようなアドリブに強い映像ではなく、CGに多い「俺が考えたかっこいいシーン」臭が強くてあまり感動しない。

 

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  音楽面にも不満はある。

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 伊福部昭は映像ありきで音楽を作っていた。シンゴジラのエンディングで使われたBGMも画面を映しながら演奏している。彼の音楽は音の強さから楽器の編成、曲の流れからテンポに至るまで計算して作っている。それなのにシンゴジラは安易に過去作で使ったスッカスカな音の録音音楽で済ませてしまった。よりにもよって伊福部昭と真逆の方向性で氏の音楽を使ったのだ。ファンから言わせるとこれほど酷い仕打ちはない。伊福部先生が存命だったら苦言を呈していただろう。

 

  と、まぁ、共通点を探す方が難しい。この記事を見た人はもう「シンゴジラは真のゴジラ」みたいな事を言わないでほしい。全く別の作品「新ゴジラ」として扱ってほしいものである。