歴史を語る資格

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 小難しい事を言ってしまったので、かえって歴史を語るハードルが上がってしまったかもしれない。少し反省。しかし、歴史とは本来だれでも書けるものである。

 

 例えば「当時を知らないから書けない」という事はない。ヘーロドトスの「歴史」は自分が生まれるよりも前の事を調べてまとめた研究論文みたいなものなので、後の時代の人間が書くのが普通なのである。日本史だって飛鳥時代平安時代から生きていた人間が作っているわけじゃなく、その当時の史料や状況から当時の状況を推測しているに過ぎない。

 

「歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の
両方の軸に沿って、それも一個人が
直接体験できる範囲を越えた尺度で、
把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである」
岡田英弘世界史の誕生ちくま文庫

 

  むしろ当時を知っている人間の方が歴史を上手く書けない可能性がある。同じ時代に同じ体験をしても人によって受け取り方は変わってくるからだ。「あの時代はいい時代だった」と語る人もいれば、「そんな事はない。あの時代はこんな風に悪かった」と語る人もいる。どちらかが間違っているのではなく、どちらも正しいのである。思い出というのは主観的で、ある物事の一面しか語られないから少し歪んでいるのである。3Dの模型をみんなに写生してもらっても、見た角度やそれぞれの技術によって2Dの絵になった時点でそれぞれの図形はバラバラなのである。

 

 なお、ヘーロドトスの「ヒストリアイ」は神話のような話になってしまったが、彼は「当事者がまだ生きている」時代についての事を調べたらしい。

執筆姿勢

ヘロドトスが調査・探求して記した『歴史』は当事者や関係者がまだ存命中の出来事についての記録であった[13]。そしてそのための探求の方法は現代の歴史研究とは異なり、史料を確認して情報を収集するよりも、現地を回り関係者に聴取し、また自ら経験することが主となった[13]ヘロドトスは自らの目で確認することに努めたが、不足する情報は伝聞や証言によって補った[17]。その中にはヘロドトス自身が疑わしいと考える情報も多々あったが、彼は信憑性の程度に拘らずそれを『歴史』に掲載している。

ヘロドトス - Wikipedia

 

  当事者の話は確かに必要だ。しかし、当事者の話だからといって信憑性が上がるわけではない。人は「神の目」でなく、「人の目」でしか物事を見れないからだ。

 


『慰安婦神話の脱神話化』全編 (日本語版)

 

  あくまで一面に過ぎないものを全てそうだったと思うのは非常に危険である。下手に一面を知っている人間より、知らない人間の方が冷静かつ客観的に物事を見る事ができる。極端な話「自称専門家」の方が危ないのである。

 

  2018年はゲーム史を記すには適していると思っている。当時を知っているプレイヤーはもちろん、クリエイターも存命である。また、スマホゲームのような新参が力を持った事で、どこか特定のメーカーやメディアが非常に強い力を持っているわけでもない。何か指摘されたらその時に検証すればよいのであって、億劫にならなくていい。

 

  ・・・・・・というわけで、誰か書いてくれないかな。