アンチが生まれる作品

 「異世界はスマートフォンとともに。」と「チャージマン研!」は私の中では同じクソアニメというジャンルである。しかし、アンチの少ないチャー研と違って、イセスマの方はアンチが非常に多い傾向にある。今回は、なぜこのような違いが生まれたのかについて考えたい。

 

 まず、なぜこの二つを比較しようと思ったのかについてだが、この作品には共通点が多い。「主人公が成長しない」「主人公が最初から強い」「ご都合主義的な展開」などなどだ。ヤマはあるかもしれないが、谷が無いので、ほぼ一直線を進んでいくだけの単調な作品とも言える。

 

 ただ一方で、それぞれの作品の盛り上がり方は違っている。

 

 「チャー研」という作品は放送当時は全く話題に上がらず、近年になって発掘されたものだ。つまり「問題作」「駄作」というレッテルが張られた後に「意外と面白いんじゃね?」という形で広まった。だから、チャー研に対する「この作品クソじゃね?」は全て褒め言葉に変換できる。「クソさ」を楽しむ娯楽として蘇ったからだ。この環境では、チャー研を不快に思う人達にとって「世間に受け入れなかった駄作」という認識が広まっているので、妥当な評価だと考えるし、世間と自分とのズレが生じる事がない。ファンの方も「クソなんだけど好き」という認識なので、平和なのである。

 

 ところが「イセスマ」は現役のオタクが「面白い」と思っている作品で、そこそこ「売れている」という所が違う。つまり、チャー研と違って、低クオリティの割には世間に受け入れられている作品なのだ。昔のオタクの「物差し」と一般人の「物差し」は同じもので、だいたいクオリティの高い作品が受ける作品だった。だが、今はオタクの物差しと一般の物差しが変わってしまっていて、世間で受けている作品が万人向けではなくなってしまった。

 

 「イセスマ」のいいところに「気楽に見れる」という点を挙げる人がいる。娯楽なんだから楽しけりゃいい、客を楽しませりゃいいってやつだ。いまどきの若者は日常でつらい事が多いから娯楽の中だけでも苦難の無い作品を望む――みたいな考察をしている人もいた。が、水戸黄門には「本人が老人」という点があるし、アンパンマンは「水やカビに弱い」という弱点があるので、最強じゃない。そもそもオイルショックオウム事件なんかがあったときなんて若者大変そうだったが、シリアスな作品は普通に存在したわけで、明らかにオタクの質が変わったとしか言いようがない。

 

 そもそも「娯楽」というものは大衆向けであった方がいい。来る客を選ぶようなものが娯楽の中心にいるのは良くない事である。「イセスマ」は特定の客しか楽しませない作品なのに、高い評価を得てしまった。だから、そこから疎外感を感じる人達から叩かれやすくなってしまったのではないだろうか。

 

 「ダメな作品」が「世間で認められなかった」場合は、「アンチも納得」するし、ファンは「それでも好きだ」と言える。一方で、「ダメな作品」を「異常に持ち上げられた」場合は、「アンチもおかしいだろ!」と思いなぜこんな作品が持ち上げられているのか疑問に思い「ファンの気持ち悪さ」に気づく、それに対抗してファンは「嫌なら見るな」と追い出しにかかり、アンチはその「閉じた世界にますます嫌悪感を抱く」。結果、荒れる。

 

 これらは似ているように見えて全く別の現象である。作品の評価ではなく、ファン同士が相手を評価するという不毛な争いだ。そして最近のオタク達の作品の持ち上げ方はあきらかにアンチを生む方法にしか見えない。なぜオタク達の物差しが一般と大きくかけ離れたのかはわからないが、作品の評価と好き嫌いを別にしないとこの溝は埋まる事はないだろう。