ピョンチャン五輪

 冬期のオリンピックが終わった。個人的に羽生選手ぐらいしか金メダルが取れないだろうと思っていたので、今回は予想をはるかに上回る活躍だった。おめでとう。

 ただ、今回の五輪で気になる点があった。それは「美しさ」という評価だ。スノボーの子がものすごい難度の技を出したのに、それよりもやや下がるが、かっこいい滑りをした人が金を取ったり、ザギトワ選手の前半流し後半ジャンプにアメリカの選手が物言いをつけたり、韓国のパシュート選手の女性が遅れた仲間に対して悪態をついた事を叩かれたり。その後の個人競技で銀メダルを取るくらいがんばったのに、平謝りでまるで「横綱の品格」みたいなものが求められていて驚いた。

 それからカーリング女子強い!みたいな報道をマスコミはするけれども、見ていた自分からすると明らかにイギリスのミスだったように思う。もちろん、運も実力のうちだし、将棋なんかは油断や指し手のミスが勝敗につながるわけで、これもちゃんと勝利である事は認める。だけど、もしイギリスが余裕で勝てたにもかかわらず、自分たちの五輪は「勝負せずに勝つ」のではなく、「文句なく勝ちたい」からあえて難しい手に挑戦して負けたのなら、負けても美しさがあった事になる。スウィープとか投げるのがダメだったとか、そういう敗因があったのかもしれないけど、それを「ミス」の一言で片付けていいものだろうかと思う。

 夏期はこんなに複雑じゃない。例えばボルトは予選では「流し」で走って、ゴール手前で横をキョロキョロ見ている。ようするに全力ではない。あれって個人的には「美しくない」と思うんだよね。けれどボルトはよくケガをする。ようするに他の選手の何倍も負荷をかける事によってボルトの走りというのは実現される。だから常に全力で走る事は彼の選手生命を奪う事につながりかけない。だからここ一番に力をとっておくのは「美しくない」けれども「ルール上正しい」かったりする。

 自分はクリエイターだからこういうルールとか評価にはだいぶ意識がいくんだよね。ようするにフィギュアでいう後半ジャンプというのは「後半にジャンプするのは体力的に難しい」難しい事ができる選手が強いという発想だからそういう評価、ルールになっている。RPGで言ったら、より外側の、より強く敵から多くの経験値をもらえるのは、クリエイターがプレイヤーに「外の世界へ行ってほしい」「どんどん強いやつに立ち向かっていってほしい」からそこを評価するために導入されている。

 そして選手はそのルールに沿って競技をしているだけ。さきほどの叩かれている韓国人選手だってルール違反をしたわけじゃない。ルール上「仲間をおいていってはいけない」とも「罵倒してもいけない」とも言われていない以上、それはしてもいいはず。けれどそれが許されない。つまり選手にとっての理想の滑りと、観客にとっての理想の滑りは違う。

 考案者、選手、観客――それぞれが思っている「これこそが評価ポイントだ!」というのは実はズレているのではないだろうか。これはゲームでいったら、クリエイターがこうさせたいと思っている理想と、プレイヤーである子供がこういうのが欲しいという理想と、親御さんが思っているこういうゲームだったら許すという理想はやっぱり違うと思う。で、どこにピントを合わせたらバランスがよくなるんだろうという事を考えている。

 下書きなしなので、ごちゃごちゃしているけれど、スポーツって基本は機械的評価のはずなのに、「美しさ」という主観を加えてしまうとややこしくなってしまうのでは?という事。まぁ、将来的には人口知能でなんとかするのかもしれないけど。日本には「柔道」という国技があって、あまりにも日本人が勝ちすぎて、外国人が参加しやすいようにレスリングっぽくしたら美しくなくなった。だから2020年では新しく「型」という競技を作ると言っているんだけど、型って機械的判定できなそうだけど、どうするんだろうなぁ、と思うのであった。