用の美2
appleを批判すると多くの人が反論をしてくるという事は予想している。例えば、「appleは人が使う事を想定してデザインしている。お前は水槽の中に端末を入れた話*1も知らないのか!」と怒られそうだ。
が、apple製品が追求しているのは「機能美」であって、「用の美」ではない。これが私の考えである。
きのう‐び【機能美】
建築・工業製品などで、余分な装飾を排してむだのない形態・構造を追求した結果、自然にあらわれる美しさ。
(出典 小学館デジタル大辞泉)
機能美というのは「ムダを排する」という事だ。フランス人は10着しか服を持たないように、むしろ海外の方がこの能力は高い。日本のファッションは伊達政宗の兜のように機能性から考えたらムダの塊としか言いようのないものである。
機能美はクリエイターによって作られるものである。何が必要で、何がいらないのかを判断して設計し、物に100%の性能を出させる。基本的にはマイナスの発想で「シンプルにしていく」と言ってもいい。
用の美はユーザーによって作られるものである。つまり、もの自体はものに過ぎず、人が使って初めて価値が出る。物は人が使って、人は物によって高められるという相互関係がある。プラスアルファなのである。
フェラーリって乗った事は無いけど多分、機能的で美しいんだと思う。けれども、公道でフェラーリの力を100%出せるわけもなく、ようするに宝の持ち尽くされになってしまう。つまり、フェラーリには機能美はあるけれど、用の美は出しづらい。むしろ無名メーカーの軽トラの方が痛車のようにベタベタシール貼ったり、後ろに生活に必要ないろんなものを運ぶ事が出来たりと、ローカルかもしれないが人によって色んな色に染める事が出来る。
フェラーリやappleは持っている事に価値があって、クリエイターが機能美を考えて作ったのだから、それを上手く使いこなせない人が悪いという事になる。モノがあって、人が合わせりゃいいんだよって価値観。いかにもキリスト教的だ。用の美はもっと土着の価値観に根ざしている。クリエイターは自分の目で見ることができないものがあって、その力が最終的に作品を作るんだと思っている。
誰の言葉だったか忘れたけど(三谷幸喜?)、「お客さんが笑って初めて完成するんだ」というのがある。脚本からムダなセリフを省いたり、適切な演技をさせたり、間を計算したりする機能美よりも、「お客さんの顔」という「人」の姿こそ美しさの根源なのだと思う。
ゲームに話を振ると、用の美があるのってフリーホラーゲームだと思うんだよね。青鬼とか機能美でいったら不満だらけで、つっこみどころ満載なんだけど、人が使う事によって何倍も面白い作品になっている。日本人が恐怖遺伝子を多く持っているから作れた(楽しめた)とか、シンプルゆえに誰でも手に取りやすい事とか、これぞ民芸品という話なんだけど、その無名性、廉価性ゆえに軽視されてゲームの歴史上なかった事になりつつある気がする。特に商業ゲーム雑誌とかからしたらこれが人気になったらゲーム業界の終わりとすら思っているんじゃないだろうか。
機能美はより機能的なものがあらわれたら消える。流行品だからだ。けれど用の美を持つものは人々から忘れ去られるようになってからも大切に扱われる。だから古いものでも価値を持つ。ミーハーがゲーマーの主流だと思っている人はぜひとも「用の美」という言葉を知ってほしい。
*1:ネットで調べると誤解(ソニーの話)らしいが……参考:【追記】ジョブズがiPodを水没させる逸話はウソである、フェイクだっていいじゃない - ネットロアをめぐる冒険