「ゲンロン8」読んでないけど

 自動車を一般人が運転するというのは現在の日本において当たり前のように見られる光景である。が、それらのユーザーは生活の一部に車があるというだけで、別に車オタクではないし、ひょっとすると車自体そんなに興味ないし好きじゃないかもしれない。それ自体は問題がない。大事なのはその車がその人の生活にどれだけ役立っているかだ。例えば、「子供達との旅行――プライスレス」みたいな。これはメーカーが提供したものではないかもしれないが、その車の価値を語る上では欠かせないものである。こういった発想は用の美と結びつけて考えていいと思う。

「メディアミックスからパチンコへ――日本ゲーム盛衰史1991 − 2018」冒頭部分【#ゲンロン8 発売記念】 | ゲンロン友の会

 『ゲンロン8 ゲームの時代』の読書感想文が流行っているらしい。私自身はあまり参加する気はない。なぜかというと2400円とか言うクソ高い値段だし、私が崇める伊福部大先生はこう仰っているからだ。

 国立博物館が一般に開放されて間もない頃のことですが、教師に引率された中学生たちが熱心に見学しておりました。生徒たちは、ちょうど新聞記者のように忙しそうに、陳列品に付されている解説や、先生の説明をノートしておりました。しかし、生徒たちは、誰一人として肝心な陳列品そのものを見つめてはいませんでした。これは、おそらくあらかじめ教師が与えた注意に忠実に従っている姿なのでありましょう。
 そうであるだけに、少年たちは、このような方法といいますか、態度が、大人の本格的な立派な観察、鑑賞の方法、態度と思い込んだことでしょう。
 もちろん、このような場合、解説が極めて重要なものであることはいうまでもないことですが、やはり、対象から直接に受ける印象や、感動が、恐らく最も重要なものであることは疑いを入れません。そのためにこそ、わざわざそこに足を運ぶのです。
 この出来事は極めて些細なことのようですが、少なくも次の二つの事柄を含んでいると思います。
 一つは、何かある作品に接した場合、作品そのものからくる直接的な感動とか、または、印象などよりも、その作品に関する第二義的な、いわば知識といわれるものの方をより重要だと考えることです。更にいえば、枝葉的な知識とか解説なしには、本当の鑑賞はあり得ないと考えることです。
 他の一つは、たとえ、自分がある作品から直接に強烈な印象なり感動を受けたとしましても、これを決して最終的な価値判断の尺度とすることなく、より権威があると考えられる他人の意見、いわば定評に頼ろうとする態度です。
 ここに述べたような、未だ年若い少年たちにあっては、自分の判断力のみに頼るわけにゆかぬのは、当然でしょうが、このような態度が無自覚に長く続けられると、終には、一つの思考上の習慣となるのです。
 このように、自分の見解を否定してまでも、何か絶対的な権威のようなものに頼ろうという態度は、恐らく、私たちの長い年月にわたる政治形態と教育の影響によるものかもしれませんが、何はともあれ、このような考え方が流布しているのは事実です。私たちは第一にこのような態度から逃れねばなりません。それでなくては、音楽のように直感的な、また、ある意味では極めて原始的でさえある感覚を基礎としている芸術の美しさを味わうことはほとんど不可能だからです。

(「伊福部昭 音楽入門」より引用)

 長文引用なので多分飛ばされたと思うが、要約すると、「芸術品よりも、芸術品の解説をメモるのはいかがなものか」という事。私のゲームに対するスタンスも同じで、人の意見を聞かずに自分が思った事を大事にするタイプである。ゲームじゃないけど、アニメの艦これとかもそういう感じだった。世の中にはネガティブな言葉に踊らされやすい民衆みたいなものがいるのは事実だろう。私から言わせるとゲームではなく解説で満足するようなヤツはゲーマーではない。で、ゲーマーではない人間がゲームを悪く思うのなんて昔からそうだったのだからどうでもいいのである。

 そういうどうでもいい事なのに、あえて口出しするのは、このゲンロン8に対する反撃がイマイチ納得できないからである。わざわざ伊福部大先生の言葉を引用させていただいたのも、「ゲーマー」の人に考えてもらいたいからである。

 まず、ゲームは「実際に触れて」体験する事がメインなワケで、枝葉的な知識はいらないのである。だから、開発者のインタビューとかネットの記事を引っ張ってきて、「どうだ!」ってやるのは邪道だろう、と。相手が知識人だから「知識には知識を!」という毒には毒をの精神でやっているのかもしれないが、ハタからみたら同類である。全てのゲームユーザーがそういう情報を拾ってきているかといったらそうでもない。

 次に、ゲームオブジイヤーとか海外メディアや、多くのゲーマーが認めた作品!みたいな定評みたいなものもソースにしたらアカンだろ、と。議論の場では少数派の意見も大事なのだから、周りの意見と違うものが出たっていいのである。実際に遊んで楽しくないと感じたのなら、それも事実なのだから公表したって別に構わない。その人にはその人なりの感性があるのだから、それは尊重しないといけない。

 そもそもこの書籍、ちゃんと実名公表しているわけで、私のようにほぼ匿名でシンゴジラ批判している人間よか大分マシなわけである。同人誌や個人出版レベルの書物でもあるわけで、世界的なメディアでもないのだから影響力なんてものもないだろう。少なくともこういう文字だらけの書物買うような人間はある程度の教養はあるはずなので、洗脳されてしまうほどリテラシー低くないだろう。

 ゲンロン8を叩いている人達の言うとおりに本を作れば面白くなるかというと疑問で、というより、そもそも私のスタンスは前述の通りなので、ようするにこの戦いは不毛以外の何物でもない。むしろ一番最初の車ユーザーをゲーマーに変えて読んでほしいが、ゲームオタクでないゲーマーからすれば、「え、そのぐらいの知識がないとゲーム語っちゃいけないの?」とビビらせるだけだし、アマゾンレビューで長文を書いているのは単純にどん引きされるだけである。

 あらゆる方面から叩かれる覚悟で言えば、私も「バイオハザード4」知らない。そもそもホラーゲームに詳しくない。だから某氏の主張するような「ゲームの歴史を語る上でバイオハザード4が必要」という意見には首をどの方向にも振れない。けれどこれは仕方がない事である。

 世の中の全ゲームをプレイした事がある人間なんていないのである。いや、物理的には可能だ。けれども人がゲームできる時間っていうのには限りがある。たくさんプレイするが一つあたりのソフトのプレイ時間が20時間のおっさんと、モンハンだけクリスマスにプレゼントされて600時間遊んだ小学生だったら、小学生の方が深くて熱い文章を語れるのである。時間だけでなく環境も重要だ。喫茶店にあるスペースインベーダーを仲間と競いあったり、技を見つけ合ったりしながら楽しんでいたおっさんと、リメイクされたスペースインベーダーを遊ぶ小学生だったら、どんなにたくさん遊んだとしても小学生がおっさんの思い出には勝てないだろう。

 プレイに限っていえばそんなに差は出ないが、こと文章に限っては一つに熱中するスペシャリストタイプの方が文章書きに向いている。ゲームライターの世界ってそうなっている。で、その結果自分がやっていないゲームに関しては語っちゃいけない感が出てきている。

あれが載っていないこれが載っていないという批判はもちろんあるでしょうけど、
それじゃあ今まで、ゲームの歴史や「正史」をまとめるような取り組みが業界から成されていたのか?と言うのは疑問です。
(産業論だけではなく、システムやデザインまで包括した議論が今まであったのでしょうか)
コアゲーマーがあれこれ言うのはもちろん重要なことですが、それらの意見なりを串刺しにしていく為の叩き台は今までなかったのではないのかなと。

 正直な話、AMAZONレビューで一番響いたのはコレだよね。みんな恐れ多いと言って誰もゲームの歴史というものに触れてこなかった。「オレには高嶺の花だ」と言って去った数ヶ月後にチャラ男に寝取られてキレる、みたいな。どう考えても原因はお前にあるだろと言いたい。

 自分も歴史っぽいものに手を出しているけど大変だよ。まず、自分の好きなゲームは語れない。星のカービィとか超影響受けたけど、自分が決めた軸からズレるから書けない。事実関係の確認大変。知らない人間(小学生)でもわかるように漢字とか注意しているけど、そもそも読んでくれない。ゲーマーからは「何当たり前の事今更語ってんの?」あるいは「アレを何故語らない?」。とりあえず池上彰スタイルだから嫌いな人は嫌いな方向。

 ゲーム業界にも夏目房之介的な人が必要だとか色々言いたいけど、眠いので寝る。なんだかんだ消費型社会では2400円払って叩く人間の方が、払わずに中途半端な擁護する私よりも彼らの味方になっているのだろう。