「ゲンロン8」読んでないけどもう少し書く

前提:「ゲンロン8」読んでないけどまだまだ書く - 鈴木君の海、その中

 こんだけ書いたけど、結局買わなかった。申し訳ない。

 既に鎮火して、もう燃えるような物も残っていないのにクドクド話題を続けてしまうのは、今回の騒動が「ゲーマー」と「歴史」という自分にとってセンシティブな話題だったからである。右脳ばかりで話を続けると切りが無いので、今回で終わろうと思う。

 まず、対立はなぜ起こってしまったんだ?というのを考えた。それぞれの性格が合わなかったというのもあるけど、それ以上に大きいのは「いま」の定義が違ったという事だろう。ゲンロン8は「メディアミックスからパチンコへ」というタイトルからして「パチンコ」が「いま」だと捉えた。パチンコというのは社会的によくないイメージがあるから、「なんでパチンコが流行るような世の中になったのか?」みたいなどちらかというとネガティブな議論になってしまいがちだ。一方でここ数年のゲームというのは、クオリティが高く面白い。そういうゲームに出会った人は「豊作の年だ」と「いま」を捉える。そして、「なぜ面白いゲームがこんなに出てくるんだろう?」という面白さについて思考を巡らす。

 つまり、最初から出発点が違うのだ。だからそれぞれが思い描く歴史というものにはズレが生じる。「いま」という定義が変わってしまえば歴史を書く動機が変わってしまうからだ。「日本のゲーム消費環境を作りあげた条件」を探す議論である以上、そこにゲームクオリティの話を持ち出す優先度は低くなる。目的が違うものに対してこれが必要だ!と訴えかけてもナンセンスである。


スプラトゥーン』はとてもよくできたゲームだと思います。FPS/TPSを日本のカジュアルユーザーにどう普及させるかということを、とことん考え抜いた解だと思います。モンスターと銃ではダメなので、イカと絵の具でいけば大丈夫なのではないかという発想ですね。

黒瀬
N64で『スーパーマリオ64』を出したときと基本の構えは変わっていないわけですね。最新作の『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』(任天堂、一七年、以下『BOW』)も同じでしょう。要は、トップレベの海外オープンワールドゲームを遊びやすく作り変えたものを日本で売った。

さやわか
とはいえ、それが日本では単純に「任天堂すごい」になっている。

黒瀬
それは日本だけでもなくて、そこにねじれを感じています。全世界のゲームメディアが選ぶ「The Game Awards」という賞がありますが、一七年度は『BOW』がGame of the year を獲った。そればかりか、『スーパーマリオオデッセイ』(任天堂、一七年)までノミネートされていて、さすがにおかしいと思いました。ゲームとしての新しさやクオリティで見れば、『PLAYERUNKNOWN'S BATTLEGROUNDS』(PUBG Corporation' 一七年、以下『PUBG』)や『Horizon Zero Dawn』(SIE、一七年)のほうがあきらかに上です。
 同賞を選ぶメディア関係者は任天堂信者が多い。一七年は任天堂の年だという声がとにかく大きかった。でも実際のところ『BOW』はふつうのオープンワールドゲームですよ。

 ネット上に転がっていたのを無断転載させていただいた。たしかに「普通のオープンワールドRPG」と言っているように見えるが、その直前に「トップレベルのものを遊びやすく作り変えた」とも表現している。これだけでもおなかいっぱいではないだろうか。劣化コピーしたわけではないのである。

 その流れから「海外のFPS/TPSゲームを日本人にわかりやすく作り替えただけ」と見えるかもしれないが、「海外の」とは書かれていないし、「カジュアルユーザー」が全ての日本人を指しているわけでもない。また「普及」させたのであって、たんなる翻訳というわけでもないだろう。

井上
 ここまで日本がダメだという話ばかりしてきたけど、欧米の評価の偏りも問題です。「Metacritic」というサイトがあって、映画やテレビ番組、ゲームなどの点数をつけていて、それは「メタスコア」と呼ばれています。メタスコアは、英語圏のさまざまなメディア、ゲームならばIGNや『Game Informer』などから点数を集め、特殊な計算式で100点満点換算して得られたものです。このメタスコアの点数は、評価基準として多くのゲーム企業も使っていたりします。

 ただ、これは主に英語圏のメディアからのデータを集めるものなので、結局は英語圏のメディアで活躍しているライターの好みがモロに反映される点数になるわけです。そして彼らのほとんどは任天堂ゼルダが大好きです。アメリカでオールタイムベストを選ぶと、一位は必ず『ゼルダの伝説 時のオカリナ』(任天堂、九八年)です。新作が出たら大絶賛ですけど、ある意味でそれは自動的に決まっている。

 「英米ライターが任天堂信者だから」は2人が言ってるのが確認できる。任天堂信者が本当に多いのかは、この手の何とか賞自体に興味がないので分からない。が「メディアからのデータを集める」「ライターの好みがモロに反映される点数」というのが事実誤認でないのなら、評価に偏りが生まれやすいシステムと言える。も言ったようにこの世の全てのゲームを遊ぶ事は不可能だ。人間は神様じゃないからだ。その限られたプレイ範囲だとメジャーゲームの方がチャンスが生まれやすい。明らかなシステムの不備であり、評論の価値がある。

 「フロムソフトウェアのダークソウルは汎用エンジンで作られた」という話については関係者じゃないのでわからん。


テーブルトークRPGやそれに関連して八〇年代に出版されていたゲームブックは、まさに出版とゲームの「あいだ」にあったものです。日本ではその蓄積を受けるかたちで、九〇年代前半、出版の想像力とゲームの想像力が入り混じる空間があった。それがメディアミックスだった。そしてそこで生み出されたジャンルこそ、JRPGだった。つまりJRPGは純粋なゲーム史から出てきたものではなく、ゲームと出版が交差する場所から生まれたハイブリッドなジャンルだった……。
いや、いい話ですね。もう今日の共同討議の結論は出た気がするな(笑)。

 「JRPGは出版を模倣していた」という記述は見つける事ができなかった。

 「ボタンを押すと反応するのがゲームの本質」というのはその通りだと思うのだが、ネット上に上がっている範囲だとなぜ叩かれているのかわからない。

 「業界で用いられてきたジャンル区分や用語は、クリエイターとプレイヤーの間で長い時間をかけて形成されてきた貴重な共通言語」というのは分かる。にわかは「萌え」の使い方を間違っているみたいな話でしょ。ちなみに私も「萌え」が何なのか未だにわからない。

 「日本のゲーム業界はミドルウェアを積極的に使わなかったため海外に遅れた」も関係者じゃないとわからん。

 なんでこんなにゲーマーに厳しいんだ?と思われるかもしれないけど、「私もゲーマーなんですよ」という事が言いたかった。なぜなら「ものすごい専門知識」をゲーマーだったら常識的、感覚的に知っているとか言われたら、私は「ゲーマー」ではない事になる。いや、こんなに熱くゲームについて語っていても、めちゃくちゃ楽しんでいても「ゲーマー」じゃなかったの?という、はっきり言ってショックを受けたのである。

 最初の記事で車を例に挙げたのは、私にとってゲームを遊ぶという事は、車を運転するという事と似ているからである。車メーカーの名前は知っているけど、それぞれの強みはよくわからないとか。運転の仕方とか活用法は知っているけど、細部の仕組みまでは知らない。というようなオタクというレベルじゃないが好きレベルの人間なのである。いや、実際には結構オタクだが、オタクじゃないと思って生きている。

 てか、インターネット上の文章見ただけでもオタクっぽい人達が語っているわけで、「コアゲーマー」VS「コアゲーマー」という怪獣大戦争でしかない。そら仕事が回って来なかった嫉妬だと思っちゃうよ。ほとんどのゲーマーは私よりもユルいゲーマーなわけで、そんな一目につく場所でケンカしたらどん引きされるでしょと思ったわけである。

 個人で怒る分には構わない。けれど「ゲーマー」「ゲーム業界」とくくって周りを巻き込むのはどうよ?って話でした。おしまい。