ノイズ

 くどいようだが、私は伊福部昭の盲目信者である。愛読書がどっかに行ってしまったので、ネットから引用する。

 

mkamiya.jugem.jp

 私たちは、しばしば「この音楽はわからない」という言葉に接しますが、その場合ほとんどすべての人は、自分の中に、その音楽にぴったりと合うような心象を描きえ得ないという意味のことを訴えるのです。この心象は、その人によって異なり、哲学、宗教、文学といったものから視覚的なもの、とにかく、音楽ならざる一切のものが含まれております。

 もし、そうだとするならば、その人たちが音楽を理解し得たと考えた場合は、実は音楽の本来の鑑賞からは、極めて遠いところにいることになり、理解し得ないと感じた場合、逆説のようではありますが、はじめて真の理解に達し得る立場に立っていることになるのです。

(中略)

 音楽の愛好者の中には、このニーチェの哲学の背景をもつシュトラウスの作品に接すると、あたかも自分もまた哲学者であるかのような荘重な面持ちで、その音楽いかんにかかわらず、大いなる感動を示す人が多いのです。一方、サティの「ジムノペディ」は外見も単純であって、世俗的人気はシュトラウスに比ぶべくもありません。しかし、もし音楽を知る人であったら、その評価は完全に反対となるのです。「ジムノペディ」は人類が生み得たことを神に誇ってもいいほどの傑作であり、シュトラウスの作品は題名だけが意味ありげで、内容は口にするのも腹立たしいほどのものなのです。

 


サティ/ジムノペディ 第1番

 


「ツァラトゥストラはかく語りき」 'Also Sprach Zarathustra' Einleitung

 

  今だったら「※個人の感想です」で終わりそうだが、伊福部先生にとっては「ジムノペディ」は素晴らしく、「ツァラトゥストラはかく語りき」は大した事ないらしい。

 

 この感覚は、映画音楽などで育ってきた今の人々にとっては理解しづらいものだと思う。曲には物語性のあるタイトルがあって、歌詞がついているのが当たり前の時代に、ただ単純に「音」だけで作品として成り立つものは少ないからだ。そういう環境で生きていると、「音」そのものの魅力より、それに付随する別の情報の方に価値を見いだす人が出てくるのである。

 

  伊福部先生の言っている鑑賞態度はそんなに難しい物ではないと思うのだが、芸術や美術に対してそういう態度でない人達が論争しているのが2019年の日本、なんとも不思議な光景である。