4時間目「恐れを知らない戦士のように」

 ネットを見ていると「最近のRPG(ロールプレイングゲーム)は絵がキレイすぎる。昔の方が想像力をかきたてられてよかった」という意見を見かけるけど、みんなはどう思う?

 昔のロールプレイングゲームの代表として挙げられるのが、アメリカのコンピュータRPG「WIZARDRYウィザードリィ)」だ。そしてこのゲームを評価する時にやたらと「想像力」という言葉が使われる気がするんだ。誰が言い出したのかは知らないけど、先生はこの意見はうさんくさいと思うんだ。というのはそもそもRPGの本場であるアメリカでは想像力を使った遊びを評価していたのだろうか?

FFIVの戦闘画面)
スーパーファミコン版の「ファイナルファンタジーIV」がスーパーNES版の「ファイナルファンタジーII」RPGは受けないと言われるアメリカ市場で健闘している。

任天堂公式ガイドブック「ゼルダの伝説/神々のトライフォース」【下】より引用)

 先生もアメリカ市場に関してはそんなにくわしくないけど、聞くところによるとアメリカではアクションやシューティングといった派手なゲームが人気で、RPGが人気という話はあまり聞いた事がないんだよなぁ。日本では大ヒットを飛ばしたドラゴンクエストも「Dragon Warrior(ドラゴンウォーリア)」として発売されたけど、あまり売れていない。むしろドラゴンクエストと比べて映像重視で作られた「FINAL FANTASYファイナルファンタジー)」は売れているのだからむしろ、想像力よりもリアルさを求めているように見えるんだよな。だから「想像力うんぬん」はウィザードリィの楽しみ方を知らなかった日本人が、自分達なりに見つけた楽しみ方なんじゃないだろうか。

 でも、だとするとアメリカの人たちはウィザードリィの何をそんなに楽しんだんだろうか?その秘密を知るためにウィザードリィが生まれた時代、パソコン誕生の時代までさかのぼろう。

 第二次世界大戦の後、日本では戦後と呼ばれる時代が来るけど、世界はアメリカ合衆国ソビエト連邦(現ロシア)の二つの全くちがう考え方の国がにらみあっている状態が続いていたんだ。そう「冷戦」だ。よく覚えてたな。この時代アメリカは直接戦争する事はなかった、けれども国によっては混乱が続き、二つの考えのどちらにつくかで対立が激化し戦争にまで発展した所がある。ベトナムがそうだな。このベトナム戦争アメリカは兵隊を送っていた。ところが戦争は長引いて、よく使われる表現としては「どろぬま化」し、これにより多くのぎせいが出てアメリカは外国だけでなく、自分達の国民からも反発を持たれるんだな。

 アメリカ国民がこの戦争に反対したのには大きく二つの理由がある。一つはこの戦争は国民にとって戦う理由がないという事だ。自分達の国がこうげきされて行った自衛戦争ではない。だから国民からしたら家族を殺しているのは、する必要のない戦争に参加させているアメリカ政府の方に見えるんだな。そして、もう一つの理由はアメリカが自主の国であるという事だ。アメリカ人はどういうわけかエラい人に反発し自分で力を持つ事が好きで、これはアメリカが独立運動によって建国された国だかららしい。つまるところアメリカ人は政府を基本的に信用しておらず、しっかりした国民一人一人が合わさって国になっているというイメージを大事にしているんだ。例えばアメリカは軍隊があるけれど、一人一人が銃(じゅう)を持てる銃社会でもある。これは政府がいつか軍という武力で自分たちをおさえ付けるかもしれないからそれに対する力として一人一人が武力を持つべきだという考えが元になっているんだ。

 パソコンも同じ考えから生まれたんだ。これまでのコンピュータは国や研究室のおエラいさんがいる場所に置かれており、ごく一部の限られた人物しか使えなかった。これを国民一人一人に分けあたえるべき!おエラいさんや組織ではなく、個人のための(パーソナル)コンピュータを作ろう!という考えのもとパソコンが作られたんだな。

 「研究室から個人に」となると使われ方も様々だよな。研究室にあるのなら、初めから何の研究に使うかは決まっているのだから「映像はいらない。音は必要だ!」とか「いや映像は必要だけど音を鳴らす必要はないな」というように利用目的にあわせて用意できる。ところが個人になるとだれがどのような目的が使うかがハッキリしていない。だから映像の映る画面、音の鳴る装置、フロッピーディスクを使える装置とあらゆる機能を最初からセットで用意してどんな目的にでも対応できるようにしたんだ。難しい言葉を使うと「汎用性(はんようせい)」というやつだな。

 コンピュータはプログラムという機械語の命令で動くんだけど、設備がちがうと、「ブブーッ!私は映像を出せません!そんな命令は聞けません!」とおこられてしまうんだけど、製品として全てがそろったパソコンならば、例えば同じアップルのパソコン同士なら同じプログラムが使える。つまりソフトウェア化、パッケージ化が出来るんだ。「ハードウェア」という映像も音も計算もやってくれる装置に合わせて、「ソフトウェア」というデータをまとめて記録した物をユーザーに提供するという現在まで続くゲームビジネスは実はパソコン誕生と同時に生まれたんだ。

 また研究機関から個人へ移った事でゲームの内容も変わった。動画を見てみよう。画面に映っているのがウィザードリィだ。これまでの「アドベンチャー」や「テニスゲーム」とちがって画面を見ただけでワクワクできないだろうか?これはウィザードリィが研究目的とは別物で、個人のしゅみで作られた事が大きいんだな。エンターテイメントの要素があるという感じ。そのため、ニンジャが出てくる、モンローみたいなセクシーなサキュバス、トレボーのケツという名のアイテムがあるなどの悪ノリが見受けられる。研究目的のマジメな作品だったらコレはないだろうな。

 そしてこれこそがウィザードリィがヒットした要因なんだ。ベトナム戦争当時、反戦運動の中心にいたのが「西洋の理性的で禁欲的な近代化科学化はダメだ!東洋の神秘主義自然主義バンザイ!」という「ヒッピー」と呼ばれる若者たちなんだけど、そんなヒッピーに共感した技術者がパソコンを作った。アップル社でよくiphoneをプレゼンしてたスティーブ・ジョブズもその一人だ。ウィザードリィが出たAppleIIはもちろんジョブズの作ったパソコンだ。そしてウィザードリィでめちゃくちゃ強いニンジャやサムライは西洋ではなく東洋の武人だし、ウィザードリィD&Dの元となった「指輪物語」はキリスト教よりも前の価値観で作られていたためヒッピー達の聖典となり、登場人物の一人である「ガンダルフ」を大統領にしようという運動もあったらしい。

 よくウィザードリィアメリカのRPGのえいきょうを受けたゲームの中に、「キミはとびらを開けてもいいし、あけなくてもいい」という表現があるけど、これは聖書なんかに出てくる「なんじ、ぬすみをしてはならない」と対になっているんだ。つまり政府やキリスト教の禁欲的で自分たちをおさえ付けようとするものに対し、「う、うるせー!オレだってえっちな事したいし、暴れたいんだー!」みたいな気持ちがわき上がってくるんだな。――日本のゲームではあまり見られない表現として「友好的なモンスター」をたおすかどうかの選たくが出て、それによってそのキャラが善か悪か決定される場面もあるけど、これこそロールプレイングなんだ。これはアメリカ人はざんこくなのだという事ではなく、ゲーム中のキャラは自分ではなく、作り出された自分の分身のキャラであり、そのキャラは現実のかんしょうを受ける事なく、自由意志のみで行動し、そのキャラがどうなるかを楽しむって事なんだ。

 この感覚は日本人にはない。ヒッピー文化自体は日本にもきたけど、アメリカほど禁欲的でない日本では全然流行らなかった。「特さつ」では血が飛び出て、アニメのお色気シーン、かくとうシーンはカットされず、公用語も英語を強制されない日本人はそういう面での不満がほとんどないとも言える。*1だからそんな社会ではロールプレイングゲームも本来の意味で人気が出ることがなく、現実世界のおさえつけられた自分と異なるキャラを演じるのではなく、だれか他人があたえた役割を自分の素の状態で操作していく遊びだととらえたのだろう。

 この事が日本のRPG批判にもつながってくるのだけれども、その事を知るためには日本のゲームについて語る必要がある。……それじゃあもう時間だな。解散!

つづく

*1:全く無いとは言わないが。