5W1Hでいちばん大事なのはH

前提:史上最悪の思考法 - 鈴木君の海、その中

 歴史教育がつまらないのは「○○年に△△が□□で××をした。」みたいな事柄を羅列しているだけだからだろう。そもそも歴史というのは人間が作ってきた生のドラマなのだから、そこにはストーリー性があるわけなのだが、そういう見方をせずに「イイクニ作ろう鎌倉幕府」みたいな暗記物の教科になってしまっている。こんなもの「ホントは1192年じゃなかったんだよ!」みたいな事になってしまえば覚えるだけムダである。

 これは歴史に関わらず言える事なのだが、「5W1Hでいちばん大事なのはH」である。Hと言っても変態の方ではなく、“How(どのように)”の方である。“Who(誰が)”は対象が複数人だった場合はかえってハッキリしないし、“What(何を)”は形容詞によりぼやかして言う事も出来る(例:なにやら怪しげな踊りを)ので、その事象・対象を正確に認識できてなくても形にできてしまう。“When(いつ)”は先ほどいったようによくズレる。人間は機械のように「今日は7:03分に朝食を済ませ、7:18分に朝シャンをした」というように記録できるわけじゃない、大抵の人間は「今日は7時頃ご飯を食べ、それからしばらくして朝シャンした」みたいにアバウトにならざるを得ないだからこれもハッキリしない。“Where(どこで)”は例えば「公園で」「公園のベンチで」「公園のベンチの左側で」というように細かくする事もできるが、対象が道路であった場合「道路のどの辺」であるかを細かく答える事が出来ない。広大な草原の中にいた場合広大な草原の「どこで?」起こった事なのか説明のしようがない。そのまま「広大な草原の中で」と答えるしかなく細かな場所の特定は無理なのである。“Why(なぜ)”は以前言ったように無限ループにつながるので論外である。
 
 痴漢の冤罪事件でいちばん役立つのもHである。*1この場合の“Who”というのは「犯人」以外にありえないが、犯人は「検挙された人」なのか「未知の人物X」なのかがハッキリしない。“What”というのは痴漢行為に他ならない。細かく言ったところでセクハラにしかならない。ぼかして言えば検証が困難になる。“When”は痴漢が行われていた時間だが、そんな事は犯人と被害者しか分からない。犯人と被害者が違う時間を主張したらどっちが正しいのか分からないし、冤罪事件の場合、犯人はその場にいないのだから被害者の主観による時間しか分からない。“Where”は電車の中以外にありえないが、満員電車の場合被害者の場所は特定できても犯人の場所まで特定は難しくなる。“Why”はまさしく犯人しか知りえない情報だが、そんな事は分からない。普段痴漢系のアダルトビデオやエロ漫画を見ていても痴漢をしない人もいれば、ちょっとした気の迷いで痴漢行為に及ぶ輩もいるのだから、考えるだけ時間の無駄である。そこで“How”である。その被害者の発言が「真」だったとして、はたしてそれが「本当に実行可能であるかどうか」を考えるのである。例えばその体勢での痴漢行為は不可能とか。

 私が歴史に対して思う事は「誰がいつどこで?なんて事は興味ない」という事である。例えば卑弥呼がいた邪馬台国が九州にあったのか本州にあったのかなんて事は確かめようがないのだから、どうだっていいのである。むしろ、その時代の人々は見知らぬ外国人と貿易をしていたけれども「どうやって外国語を学んで会話していたのだろう?」という事である。ためしに「どのように」思考を始めよう。

 まずはぱっと思いつく事からはじめる。現代人ならば辞書を使って翻訳するのだから、辞書のように一つ一つの単語を変換していくという方法がある。例えばにんじんを手に持って「これは何ですか?」と訊く。そうして相手が「キャロット」と答えたらそれをメモして記録していくという方法である。もちろん「これは何ですか?」という言葉は通じないのだから指差してジェスチャーでやったりする必要はあるだろう。

 ――と一通り考えた所でこの方法が本当に確実性があるのか検証する。するとやはり問題があり、たとえばにんじんをだした後、だいこんを出した場合それをきちんとキャロットとラディッシュと言ってくれるかというと疑問である。言葉を発する方が「あれ?さっきと同じ物じゃないか?何が違うんだ?ああそうか色が違うのか」と思ってオレンジ、ホワイトと答えてしまうかもしれない。つまり間違って伝わる可能性も高いのであり、この方法での学習は実用的ではないと考えられる。

 というわけで別の観点から考えてみる。そもそも我々は「どのようにして」母国語を理解したのだろうか?それは自らその言語環境に飛び込む事である。有名人で言うと、ウエンツ瑛士はドイツ系アメリカ人の父親を持っているが、彼自身は英語もドイツ語も喋れないのである。つまり、言語は血筋ではなく、環境によって後天的に身につくものなのである。普段から日本語しか聞かない環境にいたから彼は日本語しか喋れなくなってしまったわけである。言い換えれば普段から両親の言語をどちらも聞いていれば彼は英語も日本語もペラペラなバイリンガルになっていたかもしれないのである。つまりバイリンガルな子供を作れば外国語は理解できるのである。しかもその子供が大きくなれば知識人として役に立つのである。

 ハーフで両親の異なる言語を両方理解している子なんて身近にたくさんいるわけだから、わざわざ疑問を挟む余地などないと考えられる。つまり後者の仮説の方が可能性が高い事が分かる。そして面白いのはここからだが、見つけたこの仮説からさらなる仮説が生まれる事もある。例えば日本人は儒教文化の影響を受けながらも親よりも子の方が力を持つ文化である。それもこの「バイリンガルな子供」の持つ特殊性、ありがたみからそれが尊敬の念として神聖視されるようになったのではないか?という事である。また両親が違う国籍ならば手っ取り早く言語学習できるわけで、飛鳥時代のおエラいさんに帰化系の血が多いとしてもそれは帰化人と日本人のハーフだったからと考える事もできるわけである。さらにもっといってしまえば「異民族は野蛮人」という大陸思想に染まっていない和の思想の持ち主ならばこの方法は容易に行える…など、論理的にムジュンの無い答えは芋づる式に既存の知識と絡ませる事ができるのである。

 暴走して何が言いたいのか分からない文章になってしまったが、私が言いたい事はただひとつで5つもあるWよりもたった1つのHの方が優れた思考なのだという事である。

*1:変態ではない(くどい)