菩薩というモデル

 日本の仏僧と聞いて思い浮かぶのが瀬戸内寂聴ぐらいしかいないのが悲しいところだが、その瀬戸内寂聴は普通に酒も飲むし、肉も食うのである。

【楽天市場】瀬戸内寂聴さんプロデュースの日本酒 賀茂泉 純米吟醸 終の栖(ついのすみか)720ml【あす楽対応_関東】【あす楽対応_甲信越】【あす楽対応_北陸】【あす楽対応_東海】【あす楽対応_近畿】【あす楽対応_中国】【あす楽対応_四国】【あす楽対応_九州】【hiro1022】:Let’s enjoy酒生活.酒文化 タナカ

TVや雑誌で引っ張りだこの瀬戸内寂聴さんが広島県東広島市
西条の賀茂泉酒造へ出向き、数あるタンクからきき酒をして選んだ純米吟醸です。

月刊誌「the 寂聴」に連載されている写真家・作家である藤原新也さんとの往復書簡「終の栖」(ついのすみか)がこのお酒の企画のきっかけとなりました。
ラベルの文字は藤原さんによる書です。

寂聴さんが選ばれた純米吟醸酒は、すっきりした辛口の中にも柔らかな米の旨みを感じるやさしく穏やかな仕上がりのお酒です。
冷やせば爽やかで軽快な味わいで、燗にするとふくらみのある柔らかな旨みを楽しむことができます。

食中酒として魚・お肉を選ばずお楽しみいただけることができると思います。
楽天市場から引用)

 「日本の仏教は堕落している」と言う事もできるが、調べてみると元々の仏教では肉食については禁止されていなかったらしい。何でも昔の坊さんは修行の最中、食べ物の余り物を他人からもらって生活していたらしく、その際与えられたものは何でも食さなければならなかったらしい。だから自分が動物を殺したり、食べるために殺してもらったりしたものはダメだが、「調理された状態」で出されたら食べてもいいらしい。ただし、これは「元々の仏教」の話であって、寂聴の所属する「天台宗」を含めた大乗仏教のほとんどの宗派において禁じられているので、いずれにしろ戒律違反だし、そもそも酒は元々の仏教でも禁じられている事である。

 「精進料理」という植物性のものだけで作られた料理があるが、これはは大乗仏教が中国に入った時に生まれたものである。一説には信者が増えたことにより、信者が僧侶のための料理を作る事が多くなり、その際に「僧侶に食べてもらうために殺した」という事がわかりきっているから、肉食をしなくなっていったという。また「五葷」というニラやネギなどの野菜も食べてはいけないというルールが生まれたが、これはいわゆる「ムラムラ」してきたり、匂いがキツすぎて修行に集中できなくなるから食べてはいけないとされている。お酒を禁止しているのもまた修行の妨げになるからである。つまり禁止されているものの大半は宗教的な道徳よりも「修行に差し支える」事が理由である事がほとんどで、逆に言えば「自分や周りが気にしなければ何も問題はない」とも言えるのだ。

 最近では精進料理がダイエットや健康食品として注目されているようだが、その認識は「正しい」。なぜならば大乗仏教とはダイエットの事に他ならないからだ。巷ではリンゴダイエットやバナナダイエットというのが流行っているが、みんなダイエットして何になりたいのかと言ったら、テレビや雑誌などで活躍する「ファッションモデル」になりたいのである。ダイエット自体が苦しくても続けられるのはモデルという目標があるからである。

 仏の尊称の一つに「如来(にょらい)」という言葉があるが、大乗仏教においてこれは「悟りを開いて輪廻から抜け出したが、人々を救うために帰って来た者」を意味する。ジャータカという説話ではお釈迦様の前世ではないかという話が集められていたが、それと同じようにお釈迦様があらわれるよりも過去や未来に仏がいたんじゃないだろうかという考えが興った。つまり仏がお釈迦様一人だけじゃなく「他にもたくさんいたんじゃないだろうか?」と考えた。だから大乗仏教の仏像はお釈迦様だけではなく、「阿弥陀如来(あみだにょらい)」や「大日如来(だいにちにょらい)」といったように複数の仏がいるのである。

 そしてこの複数の仏はどれも人々を救うためにやってきた存在なのだからヒーローであり、大乗仏教では崇拝の対象である。異教における神に近い存在だが、神が次元や血筋が一般人と全く違う特別な存在なのに対して、如来は元々は人間であった事に違いがある。そして、この如来が人間だった時の姿を「菩薩(ぼさつ)」と呼ぶ。我々は如来になる事はできないが、その気さえあれば誰でも菩薩にはなれるのである。つまるところ大乗仏教とは如来という理想像を体現した菩薩というモデルがいて、それを修行というダイエットをしている人たちが崇め、追っかけている宗教である。*1

 そしてヒーローが編み出された事により、仏教は「自分の苦しみを開放するために修行によって悟りを得る」という価値観から「人々を救うために修行して悟りを開く」という価値観に変わっているのだ。だから寂聴みたいな僧侶でも「人々を救っている」という価値観では間違っていないのだから、普通に徳のある坊さんとして祭り上げられているとも考えられる。

 一つ付け加えるとこういった大乗仏教の考え方はお釈迦様本来の考えではない。例えば念仏を唱えるだとか苦行のような修行をお釈迦様はやっていないし、仏像や経典を保管しろなんて一言も言っていないどころかむしろ諸行無常では「いつかなくなるものに囚われるな」としか言っていないのだから寺自体が不要とも言える。大日如来に至っては宇宙の太陽神なのだが、実在した人物でもなんでもない概念だけの存在なわけで、お釈迦様からすれば「え……、私はそんな事一言も言ってませんよ」という話だったりする。日本に伝わった仏教は色々な宗派に分かれているがそのほとんどが大乗仏教であるが、ぶっちゃけて言えばそのほとんどが新興宗教の類に過ぎず、仏(お釈迦様)の教えでもなんでもないのである。

 というわけで実を言えば、日本人は仏教徒ではないのである。日本人の考える仏とは本来の仏ではない。この仏の正体を探るためには、そもそも何故日本では葬式仏教というものが生まれてしまったのかを考える必要があるだろう。

つづく

*1:別の例えで言うと「如来というウルトラマン」になるために頑張る「菩薩というハヤタ隊員」というイメージである。