仏教は死者をすくう

 日本の坊さんは普通に結婚して子供を作る。これがどれほどの問題なのかは仏教徒ではない日本人には分からない事である。ここで勘違いしてほしくないのは私は別に嫉妬の気持ちがあって「僧侶は妻帯禁止を貫くべき」と言っているわけではない。お釈迦様ことシッダールタは普通に奥さんもいれば子供もいたわけで、坊さんがお釈迦様に対して「アンタだって家族作ってただろ」と抗議したい気持ちもわかる。だが問題は子供を作る理由である。日本の坊さんがなぜ子供を作るのかというと、子供に自らの後を継いで寺の住職になってもらう「世襲制」のためである。

 お気づきの方も多いだろうが、お釈迦様本来の教えは「諸行無常」つまり「この世に変わらないものなんて何もない」。そしてその変わってしまうもの、なくなるものに囚われる事、「煩悩」を捨てる事こそが悟りへの道というわけである。ところが、ご覧の通り日本の坊さんは寺というものに囚われ、なくなってはならない、絶やしてはならないと子供を作っているわけである。これが煩悩ではないというのなら何なのか。

 坊さんがここまで寺に執着するのは日本特有の文化である檀家(だんけ)制度というものが関係している。これは江戸時代に幕府がキリスト教徒をあぶり出すために作った政策が元になっている。日本はあちこちにその土地の寺院があるわけだが、その土地に住んでいる人たちはその寺に所属し、お金などを寄付するのである。そしてその見返りに葬式や供養をお寺が代わりに行う。この制度によってその土地に住んでいる人の名簿だとかどこの宗派なのかとかそういった事が明らかになる。要するにお役所仕事なのである。日本の坊さんとは信仰心を持った聖人ではなく、お役所仕事の延長なのだ。

 現在ではお役所仕事は市役所や町役場がやってくれるし、信仰の自由があるので別に檀家制度はいらないのである。しかし、日本人は未だに葬式といったら仏教であり、ただの職業坊主でも必要としているのだ。ここで考えてほしいのは、仏教と葬式を直接結ぶものは何もないということだ。例えば仏壇は先祖崇拝の儒教がもたらしたものであって、仏教の教えにはない。むしろそんなものを作る事自体が煩悩の塊と言えなくもない。仏教自体も「生きている人々がどのようにして幸せになるか?」を問う宗教であったはずで「死者」のための宗教ではなかったはずである。つまりこれらの風習は仏教の思想ではなく、日本の価値観、宗教に合わせて仏教がアレンジされてしまっているのである。

 私がこれまでに書いてきた古代日本の宗教観をもう一度思い出そう。日本には複数の民族が存在し、それらが互いに相手の文化を認める「和」の思想を持つに至った。この「和」とは人々が手をつなぎ輪という巨大な円を描いている状態の事であり、日本人の理想である。そして人々はハレという特別な祭りの日と、ケという日常の積み重ねを繰り返しながら生きている。ケは様々な要因で枯れていってしまうが、生き物ならば身を削ぐ事(ミソギ)によって生まれ変わる事でケを補充できる。しかし、穢(怪我)れてしまうと人は死ぬ。そして死者は身がないのだから生まれ変わる事ができない。それは理想である輪に加われない事を意味する。円満な死なんてそうそう無いんだから輪を乱していく。……ここまで書けばなぜ坊さんが必要とされるのかも分かるだろう。

 まず、仏教は死をケガレとしない。生老病死という考えがあるのだから死ぬことも苦しみだが、その苦しみは生きる事の苦しみと同じである。つまり価値基準が「生=死」。さらに仏教にはインド哲学から引き継いだ輪廻転生の考えがある。これは死んだ魂は再び煙だとか雨だとかになってまたこの世の中に生まれてくるという思想である。インド人にとっては苦しい世界を表現したものだが、日本人にとっては再びこの世にもどってきて一緒に手をつなぐ事ができるハッピーな世界観なのである。
 
 異国の宗教である仏教が日本で浸透したのは「死者をリサイクル」できるから。不老不死みたいな生きている人間のための科学・呪術である道教は死者を救えない。リアリズムを徹底している儒教では死者が死んでもどってこないという事実をどうする事もできない。唯一仏教だけが「はみ出し者」の死者を「掬い(救い)あげて」輪の中に入れる事ができるのである。

 御霊信仰とは元々は怨霊だけでなく、すべての死者、死霊がこの世の超常現象を起こしているという考えだったのだろう。それが仏教の伝来によって普通の霊は供養され祀られる事になった。異国の「死者も繰り返す」という考えを持った宗教の方法で祀れば死者はまた戻ってくる。だからこの仏教の考えに反する無残な殺され方をした者はちゃんと供養されないので恨みを持った怨霊としてその後も恐れられ続けたのである。武士が切腹という後始末が大変でその後首を後ろから切ってもらわないと死ねないという面倒な方法で処刑されたのも「私は自らの意思で死ぬのであり、あなたがたを恨む事はありません」という誓約だったのではないか。*1

 故人を「ほとけさん」と呼ぶのも日本特有の考えで、仏教で考えれば死んだだけで悟りが開けるわけがない。しかし、日本人は死者をとても大切に扱う。それは死者が「すくいあげなければならないもの」だからである。そもそも「ほとけ」はこの世から「解け(ほどけ)」た人を表すという説もあり、悟りを開いたブツとは区別した方がよいのかもしれない。そして靖国神社を見れば分かるように日本人にとって死んでしまえば善も悪もなく祀られる。元々は災いを起こす死者を封印した祠が仏教の伝来によって神社になったのである。*2

 この仏教と古代日本の価値観の融合こそ、現代まで続く我々の価値観を作り出した出発点である。そしてこれが起こったのは日本初の有史時代――飛鳥時代である。我々の宗教観は飛鳥時代から始まる。そしてその宗教観は実はある一つのぶつかり合い、宗教戦争によって始まったのである。そう仏教はその考えにより全てを受け入れる事ができなかったのである。仏教と相容れなかったもの、それは「狩猟民族」である。

つづく

*1:御霊信仰の嫌なところは高貴な生まれのものしか怨霊にならないというところです。だからそこらへんの身分の低いものを切捨て御免しようが怨霊にはなりません。ちゃんと調べたわけではありませんが、多分切腹で死んだ武士のほとんどは身分が高いんじゃないでしょうか。

*2:死霊というゴジラは、仏というウルトラマンが来た事によって、縁結び厄除けのポケモンになりましたとさ。