宗教戦争の末に生まれ出づる国

 パレスチナ問題を知るとほとんどの日本人は「宗教コワイ」という感想を抱く。その一方で「日本に生まれてよかったわ。宗教問題とか無くて」といった感想も見られる。しかし、日本の靖国神社の問題は明らかに宗教問題である。死者は全て尊くちゃんと供養すればあの世で幸せ(仏)になれるという日本の宗教と、そういった霊的な世界観を持たない儒教のケンカである。日本人は無宗教ではなく、むしろかなり宗教的である。そもそも古代日本において「実際に宗教戦争が起こった」事を知ったら果たしてどんな表情を浮かべるのであろうか。

 日本では「神様仏様――」とお願い事をする時には一緒に唱えるほど神仏が一体化している。これは「日本人は多神教だから異教の神も受け入れられるんだよ」という「和」の思想ともなんらムジュンは無い。しかし、そんな神道と仏教が明らかに相容れぬ存在で、それぞれが自らの存在証明のために争っていた事を知る人間はどれほどだろうか。仏も日本の神も唯一神じゃないわけで、多神教だから戦争が起こらないというのは嘘である。それでは、いったい神道と仏教の何が相容れなかったのだろうか?

 それは仏教が農耕民族の宗教だったからである。インドは牧畜民アーリア人と農耕民ドラヴィダ人が作った定住農耕社会で元々狩猟民族が少数派なのである。だからそこで生まれた仏教は狩猟民族に対するフォローがない。さらにヘレニズムの影響を受けた大乗仏教には大日如来という概念だけの仏が生まれたが、これは太陽神の事であり、同じく農耕社会であるエジプトの主神だったラーとほぼ同じ役割なのである。これらが天照大御神の元ネタの一つである事は言うまでもない。そして中国や百済(朝鮮)を経由して仏教は伝来するわけだが、中国人は歴史や文化からみて間違いなく農耕社会であると断言できる。朝鮮人に関しては日本人と同じく農耕とも狩猟とも言えないが、仏教を伝えた百済人は農耕民族だった可能性が高いらしい。
 
 つまり仏教が狩猟民族と出会うのは日本が初めてという事になる。もちろん、日本人だって農耕民族だろうと見ている人は多いだろうが、私は狩猟民族だったと見ている。弥生人を農耕民族と捉える人は多いが、その弥生人が生きていたとされる倭を見た中国(魏)人は普通に漁をしている所を見ているわけで、全ての人が農耕をしていたわけではない。我々は仏教以後の農耕民族的価値観が支配する世界しか見ていない。例えば古事記日本書紀は仏像伝来以後に作られたものであって、縄文時代弥生時代に書かれたものではない事に注意が必要である。

 だから飛鳥時代の初め、仏像が伝来した当時は仏教的価値観で国は動いていなかったのである。仏像伝来時、日本には二つの大きな勢力があった。一つが物部氏(もののべうじ)もう一つが蘇我氏(そがうじ)である。この二つの勢力は今でいう右翼左翼みたいなもので、物部氏は昔から続く価値観を守ろうという伝統保守派、蘇我氏は外国の価値観を取り入れ国を改革しようとする革新派と言える。当然外国からやってきた仏教を蘇我氏は保護(崇仏派)し、物部氏は異国の神はいらないと言った(廃仏派)。*1

 ここでムジュンを感じる人も多いのではないかと思う。というのは古代日本において和の思想は人々や神々が手をつなぐ思想だったはずである。であるならば伝統派は進んで異国の神であろうとも手をつなごうとしたはずだ。しかしそれは不可能である。和という理想は非常にもろい。それぞれの思想同士が絶対に自分の考えを譲らない場合手をつなぐ事は不可能なのだ。つまり、今現在の集団の調和を守るためには新しく来たはみ出しものは追い出さなければならない

 仏教を受け入れた場合、動物は死んだ仲間が生まれ変わりかもしれないのだから、殺してはいけない。自然にいる生き物を自ら殺して食べている狩猟民族などは仏教的価値観においてやってはいけない事をやっている事になる。一方でこれまでの価値観を守り続けていたら死者はずっと一人ぼっちなのだ。つまり死者と狩猟民族どちらをとっても誰かが除け者になってしまうのである。

 この蘇我氏物部氏の争いは最終的に蘇我氏が勝つ。だから仏教は生き残ったわけだが、仮に蘇我氏が勝たなくとも結果は同じだっただろう。というのは日本の狩猟民族というのは元々ケガレ思想があったからである。だから血を見る事なく食べられる魚を食っていたんじゃないかという推測もできる。また、ミソギもある。ミソギとは生きている人間が行う生まれ変わりだが、当然狩猟民族は生きている人間なのだからミソギが可能である。つまり、死者をすくう事を優先し、生きている狩猟民族は「農耕民族に生まれ変わって」もらう事で対処できるのである。これで、なぜ日本にハレとケという狩猟的な文化が農耕生活に取り入れられているかもわかってきたのではないだろうか。

 ただし、これによる弊害もあった。それは血の穢れが生まれてしまった事である。狩猟民族は日頃血を見慣れている。だから女性の生理現象にも差別意識はなかった。しかし、狩猟生活が禁じられ日常で血を見る機械がほとんどなくなった結果、女性の血に対する恐れが強まったと考えられる。つまり赤不浄なる価値観は仏教の教えを引き継いだ以後の神道において定着してしまった価値観なのである。

 つまり、良くも悪くも現代まで続く宗教観は飛鳥時代から始まるのである。たくさんのムラや集落の連合国だった「倭」という国は、武力ではなく宗教の力によって「日本」という一つの統一国家単一民族へとなっていくのである。

 ――それにしても気になるのは「朝廷」とは何者なのだろうかという事である。一般的に大陸人の王朝だとか言われているが、明らかに中国や朝鮮人とは異なる価値観を持っており、日本の古来の思想に友好的であるという事である。上述の物部氏蘇我氏の対立しても、大陸派と原住民派という異なる勢力を自分の政治に参加させている。もし王による独裁政治をしたいならこれはありえない。王に歯向かうもの、楯突くものは早急に抹殺するはずである。ところが対立する意見があって、議論の末優秀な意見を採用する。これは王自体に正義がなく、議員が持っている正義同士をぶつけて、それに対し議長のように結論を出すということであり、中立的で人の話をよく聞く姿勢がなければ出来ない政治方法である。さらに古代には朝廷とは別に「出雲」なる巨大で武力を持った勢力がいたはずだが、どうやって支配下においたのだろうか?武力を持った相手に通用する宗教支配などあったのだろうか?

 これらの疑問は実はいくつかの状況証拠から答えを導きだせる。その鍵の一つが古事記日本書紀という「記紀」である。これらは単なる物語ではなく、聖書のように現実にあったできごとを大げさに語った「史実」である。そしてもう一つの鍵が「魏志倭人伝」である。ここに出てくる倭ははたして今の「日本」と同じ姿をしていたのだろうか?つまり、「倭と日本が実は違うもの」であるという事を知らなければ日本史のスタートは切れないのである。

つづく

 

*1:道教儒教が日本に根付いていないのはひょっとすると物部氏の力が関係しているのかもしれない。