弱者

 弱者という言葉は嫌いである。

 現代まで生きている動物というのは生存競争の中を生き残ってきた種なわけで、基本的に弱くないはずなのである。力を持ったオスが持つ数億の精子がたったひとつのイスを奪い合った結果、選ばれた存在なのだから、「強いやつ」か「弱いけどずるいやつ」しかいないのである。

 世の中で弱者と呼ばれている人達のほとんどは「運が悪かった人」達である。言い換えているだけじゃないの?と思うかもしれないが、全然違う。例えば身体障害者が必ずしも弱者になるとは限らない。ある能力が限定されたがために別の能力が常人より発達する事もある。障害者だから弱いのではなく、障害者の中にも「強いやつ」と「弱いけどずるいやつ」がいるだけなのである。

 社会が本当に保護しなければならないのは、こういった「運が悪かった人」であって、「弱いけどずるいやつ」ではない。生活保護を不正受給するようなずるいやつのせいで、本当に手当を受けなければならない運が悪かった人が割を食ってはいけない。

 現代社会は「運が悪いだけの強者」を認めず、「非力な弱者」を援助する。それは優しさではなく、非力な者は自分の敵になることがないからである。このように強者を恐れているという事は、現代社会を支配しているのは「強いやつ」ではなく、「弱いけどずるいやつ」なのである。「弱いけどずるいやつ」が自分より弱い者から搾取しているのである。

 このような構図に気づかずに、「弱きを助け強きを挫く」を続けていても、人は幸せにはなれない。むしろ、「弱いけどずるいやつ」を喜ばせるだけである。

 私は自分自身が「強いやつ」か「弱いけどずるいやつ」なのかは分からない。だが、どちらかを選べと言われたら「強いやつ」になりたいのである。「強くなりたい」という考え方と「ずるくていい」と思う考え方だったら前者がいいのである。

 個人で「弱いけどずるいやつ」にシンパシーを感じたり、援助したりするのは構わない。だが、社会としては「強くなりたい」やつを応援すべきだろう。そのためには妬みの精神を捨て、力ある者を認める姿勢が必要だ。