ドラクエ11感想その2【おそらくネタバレ回避版】

前提:ドラクエ11感想【ネタバレ回避版】 - 鈴木君の海、その中

 キリストって言葉には救世主(メシア)って意味があるらしい。救世主ってのは読んで字のごとく世界を救う者だ。これは言い換えると「英雄」とか「勇者」という言葉になる。つまるところキリスト教とは勇者教のことだし、ドラゴンクエストは元々キリスト教的なモチーフをたくさんいれたゲームだった。だからこそ多くの人はドラクエの事を「王道」と評したわけである。

 キリスト教の価値観ってものすごく「ローコンテキスト」だ。だからこそ広まったと言える。どこへ行ったって古い体制は問題を抱えているし、どこでも女性はバカにされているし、どこへ行っても子供を残すのは大事な事だし、どこへ行っても子供は社会のルールを知らないから教えてあげないといけない――、だからキリスト教が言うような「女性は弱者だから救わなければならない!」とか「子供は善悪を知らないから正さねばならない」みたいなキリスト教が好むような考えは「ごもっとも」と思ってしまいがちだったりする。こういう「わかりやすさ」こそキリスト教が手に入れたものだったりする。

 もともとのヘブライ神話はイスラエル人のためのハイなものだった。ノアの洪水がどこで起こったとか、悪魔の話は特定の国を指していたとか、聖書の内容は全人類のためのものではなく、中東付近に住んでいる人達だけがわかる価値観で構築されたものだったという事がわかってきている。イエスも典型的な中東人でアラム語をしゃべる人だったのに、福音書ギリシャ語で書かれる事になった。当時ヘレニズムが起こっていたわけで、ギリシャ語は今で言う英語みたいな世界共通語だった。自分たちの言葉ではなく、どの民族でもしゃべれる言語で記すというこの時点でキリスト教の方向性は決定されていたと言っていいだろう。

 中世ヨーロッパはキリスト教の時代で、騎士道物語はその時代に作られたものだ。敵がドラゴンなのは「この世には存在しないもの(偶像)」であり、人々をまどわせるものだから戦う必要があった。キリスト教は改革の宗教なのだから、相手の文化にズカズカ上がり込んで「正しいもの」を押しつけて改革していくという左翼的な価値観が強い。というか左翼的だからどの文化圏でも既存の勢力に反発を持っている人達に支持を得る事が出来たとも言える。で、なぜ「捕らわれの姫」を助けるのかというと、どこの馬の骨とも知れない改革者が認められるためには、その国での正当性が必要になってくる。一番手っ取り早いのが、王族と結婚して家族関係になれば次期王として自然に迎え入れられるわけである。

 王族は国一番の美女を探させて結婚したりしているのだから大抵の姫は美人だし、血縁的には王族そのものだし、上品な振る舞いもするだろうし、「姫」っていうのはその国に残された「財産」と言っても過言ではない。だから古い支配者を倒した上で財産を我が物にしていくというのが中世の英雄観だった。それが肥大して生まれたのが十字軍というわけである。*1

 さすがに現代ではこういう価値観は乱暴すぎる!と捉えられるので、最近では「いや、姫様、私たちは身分違いです。」と言って去る物語が多い。自分は正義(改革)のために戦ったのであって、力や財産が欲しいわけじゃないよというアピールだったりする。ただ、見ている方としては途中でいちゃついたりして、いい雰囲気だったのになぜ?本当は嫌いだったの?となる。作り手は上述のような構造を理解しているので、そういう行動を取らせているわけだが、見ている側はそこまで知らないから行動が謎になるという、若干ハイコンテクストになる。*2

 で、話を戻して、なぜキリスト的物語が王道かと思うようになったか?だが、まぁ、オタク的には「ディズニー」の影響が強いだろう。ウォルトディズニーって実は白人至上主義者で、ディズニーはWASPの巣窟と呼ばれていたっていうのは一部のオタには有名な話。ディズニーは各地の民話をキリスト教的な新しい価値観で書き換えて、女子供でも安心して見られるものにした。言い換えるとハイコンテクストをローコンテクストにしてそれを王道とかスタンダードだと思わせた。グリム童話とか本当は残酷だったりするのに、それをカットした。それによって確かに誰でも理解できるものになった一方で、原作が持っていた生きるための知恵とか教訓とかがそういう味がなくなってしまったのも事実である。子供向け作品はそういうディズニーに倣って作品を作っていったので、それが王道と呼ばれるようになっていったんだろうというのが私の予想だ。

 ここまで説明すればドラゴンエスト1がかなり騎士道物語の影響を受けているかがわかるだろう。だが、ドラクエキリスト教的な作品かと言われるとそれも違う。あくまでも枝葉のモチーフだけをキリスト教から借りているだけで、根っこは違うところにあるというのが私のドラクエ観だ。特に注目してほしいのが、「ローラ姫」だ。とらわれの姫は「王道」だと思われる人も多いかもしれないが、ドラクエの姫は基本的に「捕らわれていない」と言っていい。

 なぜならばローラ姫はエンディングじゃなくて途中で助けられてしまうからだ。ローラ姫を手に入れる事が目的ならばそこで物語が終わってもいい。ところがそれでも続くと言うこととはこのゲームの目的は別にあるという事である。

 注目してほしいのは「おうじょのあい」である。ハッキリ言ってこのアイテム「何だコレ」である。名前だけでは形状が分からない。攻略本をみればなんかアクセサリーっぽいものだという事はわかるけれども、アクセサリーからなぜ声が聞こえるのかわかない「不思議なもの」だ。なんだかよく分からないけど、役割はハッキリしている「主人公を導き、助けるアイテム」だ。でそれをくれるローラ姫の役割は「協力者」という事になる。

 物語の役割で、「囚われの姫」は犠牲者とか被害者の役割で、そういう存在がいるから主人公はがんばるというか、「主人公が救う必要がある存在」として描かれる。けれどローラ姫は違う。力を持った存在で「主人公を救う存在」として描かれている。これってやっぱ童話に近い。ローラ姫はかぼちゃの馬車を出すおばはんみたいなもので、姫というより賢者とか魔法使いの役割をしている。で、「おうじょのあい」ってネーミングを考えるとすでにこの時点で結婚していると考えた方が自然だよなぁと思ってしまう。つまり、妻が夫を助けるようなイメージで描かれているんじゃないかなぁ。

 女性がものすごい力を持っているっていう話は世界宗教ではないが、土着の民話とか童話、さっき言ったグリム童話とかにはある。シンデレラとか男の登場シーンよりも女性達の登場シーンの方が遙かに多いわけで、重要度が全然違うわけである。で、そういう土着の話と同じくらい女性が力を持っているのが「日本書紀の神代」一般的に日本神話と呼ばれる部分である。例えばオオクニヌシスサノオにいびられまくっている時にその娘(後の奥さん)が機転を利かせる事によって窮地を脱するという女の助けで男が出世するというシーンが描かれている。

 女性をバカにする文化だったら、女性の力を借りるなど、「やーいお前女なんかに助けてもらってやんの!ダッセェー」となるはずである。女は弱い生き物なのだから、弱い者に助けられている男はもっと弱い。完全に恥ずかしい存在であっていいわけである。ところが、日本神話にはそういう恥ずかしい男が普通に出てくる。女に振り回される、まるで尻に敷かれているようなそういう描写が普通に出てくる。こういうものってそれぞれの文化を見る上でとても重要なものだと思うんだけど、なぜかあんまり語れない。

 いずれにしろ、ドラクエはありきたりな「囚われの姫」というのを出さないで、物語を作ってきた。8とかは捕らわれている気がしなくもないが、そこは描き方を工夫することによって、単なる「犠牲者」「被害者」で終わっていない。姫キャラも1作目では妻、2作目では仲間、4作目ではだれよりも強い攻撃力を持つキャラになっているわけで、どれも協力者としてものすごくユニークなキャラクターデザインになっている。

 これって日本人同士ではそんなに驚く事ではないのかもしれないけど、世界へ行った時に結構ビックリされる事のひとつなんじゃないだろうか。日本人がありきたりだと思っているものって実はハイコンテクストで、凝っているなと思っているものがローコンテクストって多い。日本映画とかハイコンテクスト祭りみたいなものだし、ダークファンタジーの匂いがするゼルダとかFFの方が改めて見るとローコンテクストで作られているとか、日本人の常識、世界の非常識みたいな言葉があるけれども、実はドラクエこそ他のRPGよりも独創的なものなんだという事にもっと気づいた方がいいと思う。

 全然ドラクエ11の話じゃなくなったので、そろそろまとめると非キリストっていうのがドラクエ11の強み。キリスト的な物語にした方がローコンテクストだったけど、それを捨てて独自の物語を作ったという話。で、今回のドラクエは「予定説」を否定して物語を作ったという。次回からネタバレに踏み込んで語ろうと思う。

*1:何も女性を救う話にしたいのなら、その辺の村娘を救う話でいい。

*2:ここで姫が「わかった!私、王族やめるでもう一度ローになるのだが、話が脱線するのでやめよう。