シン・ゴジラ批評3

 国立博物館が一般に開放されて間もない頃のことですが、教師に引率された中学生たちが熱心に見学しておりました。生徒たちは、ちょうど新聞記者のように忙しそうに、陳列品に付されている解説や、先生の説明をノートしておりました。しかし、生徒たちは、誰一人として肝心な陳列品そのものを見つめてはいませんでした。これは、おそらくあらかじめ教師が与えた注意に忠実に従っている姿なのでありましょう。
 そうであるだけに、少年たちは、このような方法といいますか、態度が、大人の本格的な立派な観察、鑑賞の方法、態度と思い込んだことでしょう。
 もちろん、このような場合、解説が極めて重要なものであることはいうまでもないことですが、やはり、対象から直接に受ける印象や、感動が、恐らく最も重要なものであることは疑いを入れません。そのためにこそ、わざわざそこに足を運ぶのです。
 この出来事は極めて些細なことのようですが、少なくも次の二つの事柄を含んでいると思います。
 一つは、何かある作品に接した場合、作品そのものからくる直接的な感動とか、または、印象などよりも、その作品に関する第二義的な、いわば知識といわれるものの方をより重要だと考えることです。更にいえば、枝葉的な知識とか解説なしには、本当の鑑賞はあり得ないと考えることです。
 他の一つは、たとえ、自分がある作品から直接に強烈な印象なり感動を受けたとしましても、これを決して最終的な価値判断の尺度とすることなく、より権威があると考えられる他人の意見、いわば定評に頼ろうとする態度です。
 ここに述べたような、未だ年若い少年たちにあっては、自分の判断力のみに頼るわけにゆかぬのは、当然でしょうが、このような態度が無自覚に長く続けられると、終には、一つの思考上の習慣となるのです。
 このように、自分の見解を否定してまでも、何か絶対的な権威のようなものに頼ろうという態度は、恐らく、私たちの長い年月にわたる政治形態と教育の影響によるものかもしれませんが、何はともあれ、このような考え方が流布しているのは事実です。私たちは第一にこのような態度から逃れねばなりません。それでなくては、音楽のように直感的な、また、ある意味では極めて原始的でさえある感覚を基礎としている芸術の美しさを味わうことはほとんど不可能だからです。

(「伊福部昭 音楽入門」より引用)

 私はこれまで「震災以後の日本人」はレベルアップしたと思いこんでいた。出てくる作品のレベルも人々の選択もそれ以前よりも一歩先へ行っていたからである。それは大規模停電によりテレビのようなマスメディアが死んで、一方でケータイ(インターネットなど)が生きていた、というところがきっかけなのかもしれないと思っている。マスコミの洗脳から多くの人達が目覚めたのだ、と。ところが、「シン・ゴジラ」を見てその意識を改めないといけないと思った。日本人は変わっただけで、これはむしろ「退化」しているのかもしれない。

 上記の引用はシン・ゴジラが軽々しく引用した「ゴジラ」シリーズの作曲家、伊福部昭(いふくべあきら)大先生のお言葉である。彼の言葉はシン・ゴジラに限らず今の「オタク」たちに対する警鐘となっていると思う。

 上記の言葉を受け止めた上で、シン・ゴジラファンに二つの質問がある。第一に、オタクとか自称専門家の解説のような副次的情報なしに、シンゴジラを楽しんだりできたのか?第二に、世間からバッシングされまくりの駄作として扱われていたとしても同じように好きになれたのか?という事である。

 第一の質問だが、本来こういう質問は私のようなゴジラファンというかゴジラオタクに対して問われる質問である。つまり、新しい作品が出てきたときに昔の作品を見ないと分からないような知識みたいなのをベラベラ出して作品を語ったりしたらやっぱりだめで、作品を見るときは子供のような初心で純な気持ちで見なければいけないものなのである。ところがシン・ゴジラというのはこれまでのゴジラシリーズとの関係を断ち切り、そういう意味では一番副次的情報というものを必要ない作品にする事が出来たにもかかわらず、1回見ただけでは何だかよく分からない作品になってしまっているのである。ハッキリ言ってこれを「成功」だとする事も「いい作品」だとする事も私にはできない。

 ちなみに私自身「作品そのものからくる直接的な感動とか、または、印象」はこちらに、「その作品に関する第二義的な、いわば知識」はこちらに書いてある。これでもちゃんと区別しているつもりである。その上で私はあまり面白さを感じる事ができなかったのである。

 第二の質問だが、私がゴジラシリーズで一番好きな作品は「ゴジラVSキングギドラ」である。ゴジラファンや特撮ファンならわかると思うがこの作品は非常に世間での評判が悪い。詳しくはググれ。だが、そんなの関係ない。世間がどう思おうが好きだと言えるのが「愛」というものだからである。互いに感性が違って当たり前なのだから、好きな人もいれば、嫌いな人もいる。当たり前である。ウルトラセブンガンダムも低視聴率だった。でも自分たちが支える。それでいいではないか。なぜ反対意見を抹殺する。

 庵野ファンのほとんどは「エヴァ」からファンになったんだと思うが、エヴァって特別な作品だった。それまでのアニメと違って子供とかオタクではない、歌手とか芸人みたいな「一般人(?)」が語ったりしていて、ようするに世界が開けた感があった。日陰者の文化が一般に浸透した(ように感じた)社会現象だった。あのときの盛り上がりとシン・ゴジラの盛り上がりは似ている。つまり、一般人のオタク化を進めているのである。

 けれどエヴァファンでもある自分から言わせれば、エヴァの時はそんな「人類補完計画」的な「みんな一緒」を否定して、罵詈雑言が溢れる世界でも、現実を選ぶというような、オタクに生まれてオタクを否定するみたいな作品だったから自分は、「すげぇ」「かっこいい」と思ったのである。ところがシン・ゴジラはその方向性から言うと逆で、むしろ「人類補完計画」そのものだろと。正直、退化としか言いようがなく、エヴァファンとしてもショックだった。これがQの後に作った作品だと考えるとなおさら。
 
 有名人、一般人、――何でもいいがシン・ゴジラは「より権威があると考えられる他人の意見、いわば定評」というものに支えられている。私は権威や他人の意見に左右されてたまるかぁ、とクリエイター気質だからそう思うのかわからないが、2017年一番面白いゲームにゼルダが出ている時点でさえ「ここがダメなんだよ」の意見を挙げる人間である。そんな人間からすれば、シン・ゴジラ世間がいいって言うからいい作品だよねー悪いっていうやつは性格ゆがんでいるとか言い出すのはハッキリ言って気持ち悪いの一言だ。感性の違いを認められない人間が、感性のぶつかり合いである社会をどのように乗り越えているのか実に興味がある。

 メンタリティとしては「敵国言語使用禁止」、「戦争に負けるとかいうやつは非国民というような時代」と同じであって、いや、正直、そっちにはついていきたくないのである。愛国ってそういうことではないよなという思いもある。

 前も言ったが私の考えは傍流なのである。その理由はひょっとすると「ネット」にアンチになりかけているというのが大きいのかもしれない。ドワンゴ川上と庵野も実はつながりがあるらしい。思えばニコニコ動画というコンテンツ自体が「枝葉的な知識とか解説」が垂れ流され、「他人の意見、いわば定評」がダイレクトに見られるものという人類補完計画的なアレである。そりゃ日本人はの民族だから仕方ないよね。

 シン・ゴジラってネットがなかったらここまでヒットしていなかったと思う。これまで自分はアンチマスコミだったけど、マスコミが雑魚同然になった今、古巣のネットに対してアンチにならなければならない時代が来たのかもなぁと思う。