用の美

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 私はapple商法が嫌いだ。

「○○ができるのは△△だけ」みたいな。少年ジャンプ商法とも言う。

 ゲーム業界はある時期から「先端の技術を提案して、ITをリードしていく業界」みたいになった。「子供達にSF的な未来を見せていく」のがゲームであるという風潮がゲームショーとかで刷り込まれていったんだろうけど、それって本当に子供達が望んでいる事なんだろうか?

 創作品は大きく分けて二種類。「芸術品」と「民芸品」がある。
「民藝」について | “民芸のある暮し” 手しごと

柳が定義した「民藝品」の条件に下記の8つがあります
実用性:観賞のためではなく、実用性を備えていること
無銘性:無名の職人によってつくられたものであること、
名をあげるための仕事でないこと
複数性:民衆の需要に応じるため、数多くつくられたものであること
廉価性:民衆が日用品として購入できる、安価なものであること
地方性:色、かたち、模様などに土地の暮らしに根ざした地域性があること
分業性:量産を可能にするため熟練者による共同作業でつくられていること
伝統性:先人が培ってきた技術や知識の蓄積にのっとっていること
他力性:個人の力よりも気候風土や伝統などの他力に支えられていること

 芸術品というのは「見ただけで驚き」があり、「著名なクリエイターによって作られた」もので、例えばゴッホ展のようなものが開かれる。それを作る事が出来るのはゴッホだけというような「オンリーワン」に支えられており、他の人間にはマネできない。――という事は数も少なく、その分「値が張る(高価)」。我々庶民が気軽に手にしていいものではなく、金持ちの家に飾って「持っている事がステータス」、基本的には「一度見たら充分」となるのが一般的な芸術品だ。

 一方の民芸品はそれよりも後に発見された。柳宗悦という人がある品を見た時、非常に「美しい」と感じた。しかし、その品には「作者の名前はどこにも刻まれておらず」、それどころか大量生産されて「店に陳列されて」いた。重要なのはこれが、博物館とか富裕層のために作られた作品ではなく、「人々の日常の中に溶け込む」ように作られた作品で、その生活の中で「繰り返し使われる事で美しさが出る」。上述の芸術品とは相反するが、これも美しい――いや、こちらの方がより価値があるのではないかという発見なのである。

 ここ数年、日本ではスマホゲームが売れてきて、それは課金とかガチャがみたいなビジネスばかりが注目されるが、そこではない。スマホゲームは「民芸品」であるという物作りの原点へもどったから人々はそれを手にしたのである。

 一方のハードメーカーは「こういう遊びができるのはウチだけ」というオンリーワンを追いすぎて「芸術品」になりかけているよな、と思うのである。ソフトメーカーはモンハン」のようにハードの垣根を越えて販売されている分まだ柔軟と言える。

 困ったことにゲームについて語りたがる人間は、悪しきゲハの文脈を受けており、偉大なゲームハードメーカーが与えるオンリーワンの面白さだけに注目しすぎである。ハードが持つ芸術性にばかり目が行き、斬新さは評価するが、民芸品のようなありきたりな発想だが使えば使うほど洗練されていく美しさというのは無視して語らない。

 念のため言っておくけど、クリエイターというのは神様じゃない。普通にゲームを楽しんでいるような10歳児なんかと変わらない普通の人だ。作ったゲームでクリエイターの評価が上がるのは構わないが、評価を持ったクリエイターやメーカーが作ったから応援、評価するっていうのは違う。ユーザーがメーカー色に染まるのではなく、ユーザー色に染まるものをメーカーが提供しないといけない。