日本ゲーム盛返史1991 ー 2018で言いたかったこと

 大河ドラマは歴史だろうか?という問いがある。例えば同じ時代を描いたとしても、坂本龍馬を中心とした物語と、新撰組を中心とした物語では見え方が変わってきてしまう。それは、中心としたものに付随する情報、必要な情報が違うからだ。そして大抵の場合は主人公を「良いもの」として描きたいので、特定の情報が遮断されたり、妄想・願望に基づくものが採用されてしまう。岡田宮脇論によると、こういうどっちが本流でどっちが間違っているかというのは中国から始まった東洋の「史」の考えであって、ギリシャから始まった西洋の「history」を訳した「歴史」ではないらしい。

 例えば「原爆」について語る時、「良い悪い」で語ってしまうと歴史がゆがんでしまう。アメリカにとっては「その存在によって戦争が終わったいいもの」だけど、核を持っていない側たとえばイランとか北朝鮮の側からすれば、「ひでぇ行為」だという話になる。歴史というものが、今、なんでこういう事になったのかを説明するためにあると考えると、「アメリカは核爆弾を使った」それは「アメリカが核開発に成功したから」それは「アメリカにはアインシュタインがいたから」では何故「アインシュタインアメリカに行ったのか」なぜ「アインシュタインは科学者として優秀だったのか」みたいな前後の流れを遡っていくのが歴史だ。が、そもそも「アメリカは核爆弾を使う必要があったのか?」というifを語る時代の振り返り方もある。良い悪いを含むこれは「評論」だ!と(少なくとも)私は捉える。目的によって必要な情報というものは変わってしまう。

 「日本ゲーム盛返史1991 ー 2018」はただ単に好きなゲームを並べただけだが、歴史にまで踏み込んでいない事がわかる。例えばセガのゲームが全然出ていないが、これは私が「アンチセガ」だからではなく、「セガのゲームハードを持っていなかったから」である。星のカービィが何故好きだったのかというと、ファミコンのゲームが激ムズで、なぜ激ムズだったのかは実際に難しいと思った「スーパーマリオブラザーズ2」みたいなソフトを上げる必要が出てくる。

 任天堂のゲームが多いから任天堂信者なのかというと、それも違う。例えば「WiiFit」について私はクソゲーだと思っている。人は「足に体重をかける」という動作が苦手だ。校長先生の長話にぶっ倒れる学生が多いように、長時間立つというのは人の生理的に無茶な事を強要しているのである。二本足という形態自体が立つ事を得意としていない進化だからである。では、なぜ人は二本足になったのかというと諸説あるが、「手を使うため」である。そういう人間の特性を無視して「すごいもの作った。だからお前らが合わせろ!」みたいな方向性のものは基本的にクソだと思っている。けれども、売り上げだとか業界初だとかの客観性を持ってきて「WiiFit」は傑作だ!という意見も中にはある。評論にはいろんな見方がある。WiiFitが何らかの形で後世に血脈を持った作品が出てくれば歴史上語る意味も出てくるかもしれない。

 何が言いたいのかわかりづらくなってしまったが、当時を生きてきたおっさんであっても歴史を語るのは難しいという事である。2018年のベストゲームについてはまだ半年残っているので保留する。