11時間目「走れ進め勇気出して」


10万本で大ヒットと言われるゲーム業界で、2000年に発売されたドラゴンクエストVIIは400万本、
312億円を売り上げました。さらにシリーズの総売り上げは2500万本、1500億円以上になるといわれています。
そのドラゴンクエスト堀井雄二様が「お皿」をきっかけにしてヒラメかれたゲームソフトだというのです。
一体、お皿がどうしてドラゴンクエストにつながったのでしょうか?

それは堀井雄二様の生まれ故郷、淡路島と深い関係がありました。

実は、淡路島で古くから伝わる「かわらけ投げ」と呼ばれる風習がドラゴンクエスト
宝探しの原点となっているというのです。
「かわらけ投げ」とは開運や厄除けを祈願し、「かわらけ」というお皿を山や崖の上から
投げる風習で、堀井様が少年時代…「かわらけ投げ」は観光客相手の一大イベントになっていました。
そして観光客の投げたお皿を探すのが堀井少年の一番の遊びだったそうです。

崖をくだり、草むらに分け入り、宝物のお皿を探し出す…それは
堀井少年にとってドキドキワクワクするような大冒険でした。
そしてその体験からヒラメイたのがドラゴンクエストだというのです。
確かにゲームで探し出すのはお皿のような金貨です…

少年時代の大冒険がスーパーヒットのゲームソフトに…
しかしそうした体験は誰にでもあるはずです!

読者の皆様、あなたの半生の中に何か見落としているものはありませんか?
ひとつのヒラメキから億万長者になれることもあるのですから…

(「金持ちA様×貧乏B様」より引用)

 312億円……ゴクリ。いや、何でもない独り言だ。さて、「ドラゴンクエスト」についてようやく語れる時が来たな。上記の引用を信じるなら、ドラクエは堀井さんの子供のころの「宝探し」を再現したゲームという事になる。これはスーパーマリオ宮本茂さんと非常に似ている。

”C“V“°‚̃tƒBƒƒ\ƒtƒB[

京都近郊の田舎にある純日本建築の家で育つ。 障子を開けると廊下があり、それは部屋から部屋へと繋がっていた。 幼い彼は部屋と障子と通路によって形作られる世界が、まるで迷路のようだと感じた。
(写真は、ゼルダの伝説のダンジョン)

田畑・川辺 自宅の周辺には豊かな山野が広がっていた。 自宅のすぐ前には田んぼがあって、秋に刈り入れが終わるとそこで草野球をした。 また、その向こうの丘を転がり降りたり、川へ行って魚を釣ったり、 無限に広がった空間を遊び場にして毎日を過ごした。 ある時釣った魚は、鋭い歯を持った不気味な奴だった。 (写真はスーパーマリオに登場する怪魚)

洞穴 山野へ探検に出かけた時、洞穴の入り口を発見した。 親には「行ってはいけない」と言われたが、誘惑に勝てず、 何度か覗きに行ってから、心を勇み立てて中に入った。 洞窟の中、ひんやりした空気の中、 提灯(ちょうちん)を頼りに奧へ進む、途中、穴が枝分かれしている。 彼はドキドキしながら1つの穴をくぐり抜けた。 (写真はゼルダの伝説の洞窟)

(Fartjest Guru「任天堂のフィロソフィー」より引用)

 スーパーマリオはブロックをたたいてこわす。これは「物をたたいて中から何かが出てきたら面白いよね」という面白さの種が先にあるのであって、「となりの家のブロックをぶちこわしてぇー」という映像ありきで作られたものではない。プレイヤーはそれがブロックでなくても例えば「ポケットをたたいてビスケットが出て」きても、「サンドバック」だったとしても同じようにプレイしたんじゃないだろうか?ただし、ファミコンのような性能をおさえたコンピューターでは、そこに「何が映っているのか」、「何が起こっているのか」を映像で伝えるのが難しい。だから、最も「わかりやすい表現」としてブロックが選ばれただけじゃないか。

 ドラクエのタンスあらしについても同じように考えなきゃならない。ドラクエが宝探しのゲームならば。ダンジョンを初めとする見知らぬ場所での探検で、そこに「宝物があったらうれしいよね」という面白さの種がまずあって、そこから発想を広げて「情報収集する家の中にも宝物があったらうれしいよね」というところまで発想を広げたのがタンスの中を調べられるという事なんじゃないだろうか。決してタンスを調べる武装集団という「映像ありき」で作られたものではないだろう。

 え?「罪の無いモンスターを殺している」件について説明しろって?まぁ、そうあわてるな。ここからが本題だ。なぜドラクエが乱暴なゲームに見えるか、その原因はファミコンゲームとパソコンゲームの方法論が全くちがう事なんだ。

 ファミコンのゲームというのは「親と子が戦うゲーム」として発展してきた。立場の弱いやつがあっとう的に強いやつに立ち向かうというストーリーで作られている。そして日本において「スペースインベーダー」に見られるように「悪いやつ」がおそってきてそいつに立ち向かっていくというのが主流なんだ。だからわかりやすい敵を一つ用意してそいつと、自分の正義のキャラを戦わせるというゲームが多いんだ。任天堂のゲームでいったら、クッパドンキーコングと戦うゲームなんだ。

 一方でパソコンのゲームというのは「子と子が戦うゲーム」が多かった。立場が同じもの同士なのだからどちらが正義かというものは存在しない。そして研究目的のコンピュータの思想を受けついだパソコンは「シミュレーションゲーム」に見られるようにデータを入力してその結果得られるデータを収集して楽しむという文化が生まれた。だから自分の分身をパソコンの中に入れて、その自分の分身が自由意志で行動してその結果どうなるのかを楽しむゲームとしてRPGを発展させたんだ。キャラクターが正義じゃない以上、ヒトであろうが、ウサギであろうが戦っていいんだ。それらと戦う事で自分の分身がどうなるのか(善になるのか悪になるのか)楽しむんだ。この事は例えばクトゥルフ神話が正義のたんさく者がクトゥルフという悪をたおす話ではない事からも分かる。これはどうしようもなく絶望的な世界観に自分の分身を放りこんで、その結果自分の分身が「どうなっていくのか」を楽しむゲームなんだ。

 ドラゴンクエストはこのうち、前者のファミコンのゲームの方法論を選んだんだ。つまり、スタートの時点では弱っちぃ勇者がパワーアップしていくことで、りゅうおうというあっとう的に強くて悪いやつに立ち向かっていくというゲームなんだ。だからドラゴンクエストには「再挑戦度」が存在するんだ。

Expired

――ゲーム内で死んでもゲームオーバーにならないのも斬新でした

 堀井 「おお、○○よ。死んでしまうとは何事だ」と、怒られるだけ。今まで積み重ねてきたものを失って、死んでしまうのはさみしい。あれは一種のギャグなんです。それくらい軽くないと、おもしろくないでしょう。

 ドラクエの世界における死とは「何事だ」ですまされてしまうギャグみたいなものなんだ。やたらコミカルな音でやりなおしになるスーパーマリオと同じだと考えていい。だからドラクエの世界では簡単にキャラクターを生き返らせる事もできるんだ。パソコンゲームウィザードリィではキャラクターが死ぬと迷宮に置き去りにされてしまうから、だれかが拾ってこないといけなくなる。またよみがえらせるのに失敗すると灰になってしまうというリスクが高いものだ。これは再挑戦型のアドベンチャーゲームと結果がすべてのシミュレーションゲームが生んだちがいと言えるな。

 ところが「ザコモンスター」に関して、ドラゴンクエストウィザードリィ的なものを選んでしまった。パソコンゲームには善も悪もない。だからその世界観においてウサギをたおそうが、ヒトをたおそうが、それは個人の自由であって、「主人公が善人ではなければならない」という制約はない。日本のゲームとはそもそも戦うものが全然ちがうんだ。マリオがクッパ軍団であるカメで敵を統一したように、ドラクエも敵をドラゴン系統でそろえれば「弱いやつだけど悪人だから戦う」という建前は作れた。ところが全く関係ないドラキーみたいなこうもりのモンスターなども配置したがために、「じゃま者はすべてたおす」みたいなゆがんだ勇者像が作られてしまったんだろう。
 
 こういったパソコンとゲームセンターという文化差のほかに、もうひとつアメリカと日本のちがいというのも大きいんだけど、それを話すと長くなるから、それは次回にしよう。おーし、今日はここまで!解散!