私がシン・ゴジラを見なかったワケ
以下は映画「シン・ゴジラ」を見た人間の感想ではなく、見なかった人間が書いた便所のラクガキである。的外れな上に、不快になる人も多いだろうから、無視してほしい。
シン・ゴジラは面白い作品らしい。ネット上でも高評価で褒め言葉が非常に多く、なるほど、いい作品なのだろう。けれども自分はそれらの「面白かったよ」の文章を見ても、テレビの宣伝映像を見ても、芸能人が絶賛していても全く見る気がしなかった。通常、口コミで広がる作品は言っている人の感想が印象的だったり、面白かったりするのだが、これだけ褒め言葉が溢れているシン・ゴジラには見てみようという気になるような文章にはついに出会わなかった。
シン・ゴジラは駄作になるだろう――勘違いしてほしくないが、ゴジラ映画とは元々駄作しかないのである。駄作だからあんなに長くシリーズが続いた。ゴジラは時代とともに生きた作品であり、前作で出てきた問題点を次で反省して改良していった作品。つまり、一つの作品ではなくシリーズとして語らないといけない。
ネット上ではゴジラ映画を昭和ゴジラと平成ゴジラと分類したがる人がいるが、これは間違い。ゴジラファンから言わせると以下の分類が正しい。
「ゴジラ」〜「ゴジラの逆襲」 原作
「キングコング対ゴジラ」〜「三大怪獣 地球最大の決戦」 スター、夢の共演
「怪獣大戦争」〜「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」 怪獣プロレスオールスターズ
「ゴジラ対ヘドラ」〜「メカゴジラの逆襲」 対新怪獣シリーズ
「ゴジラ」〜「ゴジラvsデストロイア」 VSシリーズ
「ゴジラ2000 ミレニアム」〜「ゴジラ FINAL WARS」ミレニアムシリーズ
平成はダメで昭和はいいみたいな昔はヨカッタ的な話はゴジラでは通用しない。たとえば「ゴジラvsモスラ」は観客動員数は平成ゴジラシリーズ中最多の420万人*1だし、ファンから評価の高い「ゴジラVSビオランテ」も平成の作品である。一方で、昭和の作品でも「オール怪獣大進撃」や「ゴジラ対ガイガン」なんかは非常に評判が悪い。昭和ゴジラ、平成ゴジラという分類自体がにわかの発想である。ちなみに昭和、平成で作風が違うのはウルトラマンや仮面ライダーの方である。
シン・ゴジラはネット上の評判を聞く限り、これはオタクが作ってオタクが評価しているコンテンツなんだという事に気づいた。言っておくがゴジラはガンダムよりも萌えなんかよりも古い歴史を持つのであって、「オタク」という言葉やその存在が生まれるよりも古い作品なのである。だからオタクが語っているゴジラ評は生粋のファンである私からすればあまりにも浅すぎて、全然魅力を感じないのである。
で、シン・ゴジラは上記でいうと、原作のゴジラに近いという事になる。これは監督の庵野も樋口もオタクだから、オタクの中で評判のいい初代を作りたかったというのが大きいのかもしれない。で、作品として見るならばたしかに初代は名作だが、シリーズで一番の傑作だろうか?例えば観客動員数は1120万人を記録した「キングコング対ゴジラ」が歴代最高であり、娯楽映画としては初代ゴジラはそんなに評価されていない。オタクがマンセーしているだけなのである。
世の中には「水戸黄門」や「アンパンマン」のように、行動様式が毎回一緒のキャラクターがいる。これらのキャラは周りのキャラの成長を促すだけで、自身は全く「成長しない」。同じ事を何度も繰り返すキャラなのである。ゴジラも最初こそ殺されたり、こおりづけにされたりしたが、氷が溶けた後は海から出てきて自衛隊と一悶着あって、たまたまいたライバルと戦って、気が済んだら海へ帰るみたいな形で行動様式が一定――つまり、水戸黄門やアンパンマンなんかとおんなじタイプのキャラだったわけである。特にゴジラの場合は「核に生まれて核を憎む生物」「人類に怒る生物」みたいなイメージがでかすぎて、人類に優しい、核を忘れるみたいな事はそれ自体が「違うだろ!」という印象を与える事になり、ゴジラはゴジラであるために成長できないのである。
ただ、その状況を変えようとした人物がいる。脚本家の関沢新一と、特撮監督の円谷英二だ。例えばオタクから非常に評判の悪いシーンとして、ゴジラの「シェー」がある。このシェーは関沢と円谷が現役だった怪獣大戦争の1コマらしい。なんで公式自らゴジラのイメージを壊そうとしたのかといえば、この二人はゴジラを成長させたかったからだろう。怪獣大戦争の前作、「三大怪獣地球最大の決戦」は非常に重要な作品である。この作品は人類の敵だったゴジラが今までのようにモスラやラドンと本能だけで戦い暴れるというスタートから、3体で力を合わせて新怪獣キングギドラを追い払うという少年マンガのような展開を見せる。ゴジラが成長しているのである。
私がシリーズとして見ろ!ゴジラは時代と共に生きた!と表現するのはこのためである。上記のアンパンマンや水戸黄門は「時代が変化しない」。ちびまる子ちゃんのように同じ時空の中で似たような事をやりながら、いつまでも同じキャラクターとしてそこにあり続けているのである。ゴジラでえがかれる「時代」はその公開当時の時代背景と同じである。わざわざ過去や未来を舞台には描かれない。ゴジラは時代ごとに顔を変える、それは別人だからではなく変化していくキャラクターだからである。
だから原発事故の後に描かれるゴジラというのも重要であるという事は承知している。私はこの時期にゴジラ映画が作られる事に反対しているわけじゃない。私が気になるのはその描き方だ。私がシン・ゴジラから感じる違和感について語ろう。
1.不気味なデザインは違う
シンゴジラのデザインを見て思ったのは、こいつジャミラじゃね?という事だった。実は初代ゴジラと「故郷は地球」のプロットはほとんど一緒なのである。だから、元々ゴジラとジャミラの親和性は高い。岡田斗司夫なんかはお化けみたいなゴジラが「ボクの思うゴジラ」みたいな事を言っているが、歯並びどうのこうのといい、どうやら「ゴジラの逆襲のゴジラ」のイメージと初代のイメージがごっちゃになっているようである。例えば映画を見返すと、初代ゴジラにはゴジラが現れるとみんなが山に現れたぞー!と「見に行く」。「怪獣を見た事がない世界」ではそちらの方がリアルだからだ。ここらへんはゴジラ出現と同時に逃げ出す以後のシリーズとは異なる。「顔をニョキっとだすシーン」「しのび足」「しっぽをふりまわす」「かがんで背中を光らせる」「顔アップでこちらにむかって霧状の息を出す」ハッキリ言ってそこまで怖くもない。他にも、やまね博士は自ら進んでゴジラを見に行くし、GHKは最後まで放送を続ける。唯一恐怖をあおるのは、東京を襲った時の、とりかごのシーンだけだろう。初代ゴジラはバケモノではなく、ひとつの生き物として見れる。だから「生物を殺すと心が痛む」日本人は、ゴジラの死に悲しみを感じる。
2.ゴジラは鈍重じゃない
2作目、「ゴジラの逆襲」を見ればわかる。体感的にはウルトラマンの格闘シーンと同等のスピード感であり、全然重くない。そもそも重いやつに「シェー」なんて演技できないだろう。ゴジラに重量感を与えようとしたのはVSシリーズの特技監督である川北監督である。
川北演出では本当は素早く動けるゴジラをわざと遅送りにする事によって重量感を出しているわけである。ゴジラは重いというのはオタク達がバカにしている平成ゴジラの監督がやり始めた事なのである。初代ゴジラが重たそうな演技だったのはデザインにこりすぎた結果、動くのに適していないスーツになってしまったという大人の事情によるものであって、演出ではない。それにあの当時のモンスターフィルムは模型を1コマずつ撮るのが主流だったので、着ぐるみで1カットを撮るゴジラは滑らかで比較的スムーズな映像と言える。
3.ゴジラ(虚構)はおかしい
ジュラシックパークのエンディングでは空を飛んでいる鳥が映される。始祖鳥という恐竜と鳥の中間の生物の化石が見つかるように、鳥は恐竜が進化した姿と言われているからだ。初代ゴジラの中でも鳥が登場する。
(1)フリゲート艦隊が水中にいるゴジラを爆撃しているというテレビニュースの後、怒るやまね博士の部屋にステゴザウルスの骨の模型。そして「電気を消して暗くしてくれ」とたのむ博士(後の光を当てないでくれますます怒らすばかりだ!というやまね博士との対比)
(2)おがたとやまねがゴジラを生かすか殺すかで揉めた後、えみことおがたは縁談の話が切り出せないことを悔やむ。ゴジラに対する電流攻撃のニュースの後、とりかごのなかで落ち着きのない二匹の鳥のアップ
(3)ゴジラの東京襲撃時、母親と子供が一瞬移される。とりかごの中で暴れる鳥と背後でほえるゴジラ、その後、もうすぐお父ちゃまのところへ行くのよという母親とこどもたちのシーン。
恐竜や鳥が映っているシーンを拾ったが、鳥が映っているシーンはほとんどカゴの中。鳥はものすごくちっぽけに映されるのに対し、巨大に映されるゴジラ(恐竜)。日本人ならばこの対比が復活した大日本帝国(ゴジラ)と戦後日本(鳥かごの鳥)である事は容易に理解できる。
手持ちの本(佐伯誠一・著「恐竜なんでも入門」)には「恐竜は、大むかし、ほんとうにいた怪獣です。」という表現がされている。化石が見つかるように現実と地続き。かつてここにいたが、滅んでしまった存在というのが恐竜なのである。
4.ゴジラ=龍はありえない。
テレビ朝日の特集かなんかで、ゴジラはなぜ手が上向きなのか?という事を特集していた。私なんかは「ジャミラが元ネタだからだろう」と思ってしまうのだが、その番組では球を持つ龍のイメージらしい。何でやねん。龍のイメージはゴジラシリーズではキングギドラが担っていて、ゴジラはあくまでも恐竜なのである。ここで「ゴジラVSキングギドラ」を振り返る。
(1)博物館で恐竜を冒涜するな!とデモを起こすおでん屋。彼はかつて日本軍の兵士だった。当時、戦地であるラゴス島には恐竜がいた。恐竜は上陸したアメリカ軍を追い返す。男は語る。「ワシらを守ったというよりは、自分の島を守りたかったんだろう。元来、大人しかったアイツが一変して狂暴になった。」
(2)過去。帝王グループの会長「新堂」は若い頃、日本軍の隊長だった。日本軍は「自分達を救ってくれた恐竜」に感謝するが、恐竜に対して傷を治す事も運ぶこともできない。涙を流しながら礼をすると、彼らは恐竜を残して去っていく。
(3)現在。キングギドラが福岡を襲撃。福岡は新堂が復興させ発展していた。「ワシの庭を滅茶苦茶にしおって!許さんぞ!あの『怪獣』め!」
(4)帝王グループは核ミサイルを搭載した潜水艦を東南アジアの軍事施設に持っていた。キングギドラに対応策がない政府をバカにする新堂。「ヤツはワシの救世主なんじゃ」といいゴジラ復活を望む新堂
(5)未来人によってベーリング海へ移された恐竜だったが、そこに核物質が存在したため、再びゴジラが復活してしまう。
(6)ベーリング海へ向かう潜水艦の前にゴジラが現れ、潜水艦を撃沈させる。それを聞いた新堂ははっとする。
(7)北海道で戦うキングギドラとゴジラ。その姿を会社のモニターから眺める新堂。その手にはかつての恐竜の写真。
(8)キングギドラを倒すゴジラ。今度はゴジラが日本の脅威になる。
(9)ゴジラは破壊活動を続けながら、新堂のいる新宿へ向かう。新堂は避難せず、ビルの中にいた。「どうせワシの人生はラゴス島で終わってるんだ。恐竜のおかげで生き延びたワシが築いたこの国の繁栄を、同じ恐竜がゴジラに姿を変えて壊しにきたかと思うと、はは……皮肉な話だ。はははははは……」新堂が外を見るとゴジラの姿が。目が合う両者。全てを受け入れた新堂の表情、かつての恐竜の姿、怒りと悲しみの表情で見つめるゴジラ。しばし時が止まったかのような間の後、ゴジラの口から熱線が吐かれ、新堂のビルは破壊される。「彼にとってあの『恐竜』は何だったんだろう?」
劇中、ゴジラは恐竜と表現されていて、完全な怪獣であるキングギドラとは区別されている。ゴジラとギドラは最初から対比として作られている。ゴジラはエビラやモスラと同じく、この地球上にいる生物のもうひとつの可能性である。自然の象徴であり、地面を歩いて空を飛ばない。海から這い上がって海へと沈んでいく。そして水爆の恐怖という現実と地続きの存在である。対するキングギドラはドラゴン怪獣であり、名前からしてヒドラ、日本でいうやまたのおろちなのである。また西洋の竜の羽、東洋の龍の顔を持っていて、元ネタが神話(空想)なのである。隕石から誕生した、外部からやってきた敵で宇宙戦争のテーマをアレンジしたテーマ曲、天から舞い降りて天へかえっていく……。
ようするにシリーズ的にはゴジラ(現実)、キングギドラ(虚構)なのである。三大怪獣のオーディオコメンタリーによると、キングギドラは元々赤い色だったが、間違えて青い色で塗られてしまって、金色にしたらしい。なぜ赤や金なのかはわからないが、青がダメな理由はエビラやモスラなどとの差別化のためである。青だと蛇のように現実の地球上にいる生物と同じカラーリングになってしまうからである。
なのに「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」って……ゴジラはニッポンであり現実だろ・・・常識的に考えて・・・
5.ニッポン対ゴジラはおかしい
ゴジラのイメージを正しく理解した上で、今風に作るならば「あの津波にのみ込まれた人達が原発による核の力で怪獣化して帰ってきた」のが2011年以降のゴジラであるはずだ。だとするとそのゴジラにミサイル打ち込んだり、追い返すというのがいかに酷い行為であるかはファンならば容易に想像がつく。ニッポンだろうとゴジラだろうとどちらが勝ってもバッドエンドであり、そんな映像は見たくないのである。またあの震災が生み出したゴジラならば、一番に気になるのはなぜ日本を襲うのかという理由である。
初代ゴジラには鳥かごで表されるように「アメリカの核に守られる、敵に守られている戦後日本」に対する怒りがゴジラのテーマだった。これは上記のVSキングギドラでも、俺たちは核兵器に痛い目にあったのに、それを使うようになるなんて何考えているんだ!という怒りがビルを壊す動機になっているわけである。しかし、今の日本は沖縄では基地問題があり、原発事故で反原発が増えている今「核の欺瞞、アメリカに追従する日本」なんて構図はない。であるならば、ゴジラはなぜ日本を襲うのか、意味不明。現代にゴジラがあらわれるとしたら日本が核武装する時か、北朝鮮がぶっ放してきた核兵器によって生まれた時だろう。
そもそもなぜゴジラが日本だけに現れるのかといったら、日本が唯一の被爆国だからである。ゴジラは核そのものではなく、水爆の被害者だった。被害者だからこそ加害者に対する怒りが行動動機である。都市に爆弾落とされ、漁師が海に出たら被爆した国だからこそその怒りが核ありきで動く世界に向くのは当然である。つまり「核兵器」というキーワードとセットだからこそゴジラは活きるのである。ところがこれが原発事故となるとチェルノブイリの原発事故の件があるので、なぜ旧ソ連にゴジラがあらわれなかったんだという理由づけが必要になる。加害者と被害者もシンゴジラではどっちがどっちか分からず。むしろゴジラが加害者になってしまうのでは?という気がしてしまう。
岡田斗司夫は「発展していく自分たち」がいる中で、「戦争で足を失ってしまった人」を見て申し訳ない気持ちになったという事を語っていて、要するにそういう人達への申し訳なさがゴジラという怪物を生んだんだと語っている。おいおい、ゴジラは怒りではなく「ねたみ」で行動しているのか?なんて小さい怪獣だ。事故の当時、同じく庵野作品であるエヴァから「ヤシマ作戦」という名を借りて、みんなで節電計画に協力していた事を忘れたのだろうか?東京にいた人全員が福島をないがしろにしていたとでも言うのだろうか?でも今回のゴジラがバカで「ねたみ」で行動しているならば日本を襲う理由も理解できる。ウクライナとかあっちは今も大変だから襲わないけど、日本人は裕福でなんか幸せそうだから不幸になってもらおうという理不尽な理由なら襲う動機としては成立する。このゴジラ、実は「秦ゴジラ」で次回作は「ギ(魏)・ゴジラ」なんだろう。ジャミラでギドラで秦なら仕方ない。ニッポン人はゴジラと戦わないといけない。もっとも今の日本人が戦って勝てる相手ではないが。
6.1作目は反殺戮兵器であって、反核ではない
1作目で芹沢博士は第二の核兵器(と表現してしまっていいと思う)であるオキシジェンデストロイヤーを作る。で、彼は「この技術を平和的利用できる日まで第三者に公表するつもりはない」って思想の持ち主。彼は兵器に対する嫌悪や為政者に対する嫌悪は向けるわけだが、原発に対する嫌悪は向けないのである(そもそもその当時に原発なんてあったのかどうか)。電力を作る事が目的の原発は芹沢の言うところの平和的利用に近いだろう。つまり意図的に大量殺人を引き起こし、政治家だけが得をする「核兵器」と、だれも望んでいないのに起こってしまった「原発事故」は同じラインでは語れないのである。ラストのやまね博士のセリフも相手の言い分を無視した殺戮兵器による決着に対する疑問であり、核に対しては、汚染の危険のある場所で平気でトリロバイトを触っているくらいなのだから、放射能に対して割と鈍感である。1作目の時代にはあれだけの死者が出てから間もないのに、今のように鼻血ひとつで大騒ぎするような核アレルギーとかがなかったのである。
7.アンチ・カウンターとしてしか魅力がない。
またまたテレビ朝日の番組で語られていた事だが、今回のゴジラの中の人は野村萬斎で、ゴジラの動きは能のイメージと重なる事を語っていた。は?私の記憶が確かなら能狂言は西側発祥の文化だろう。一番、津波や放射能から遠い場所の文化をなぜ、被災地代表のゴジラが振る舞うんだ?これが阪神淡路大震災で生まれた怪獣が、のんきにゲームやテレビばっかみている東側を襲うのならば理解できるが、上で述べたように今回のゴジラはねたみで行動しているはずで、そうであるならば、能っていうのはゴジラに恨まれ襲われる方の振るまいでないとおかしい。
こんなにバラバラなイメージなのになぜ一体感のある作品になっているのだろうか。おそらくだが、敵の敵は味方のように何かに対して対抗する形でイメージが作られていったのだろう。一言でいえばハリウッド版ゴジラと比較してシン・ゴジラは素晴らしいという結論で語られている。そう考えれば東洋の神である龍、能、ついでにゴジラの持つシン(神)としての描かれ方も理解できる。
もっともゴジラが神というイメージはゴジラファンの私にはない。このイメージのそもそもはGODZILLAという海外向けの名前にGODが含まれている事だろう。実際にはゴジラにはGODのイメージなんてなく、恐竜である。ゴジラの名前の由来もゴリラ+クジラであり、日本語で考えて初めて理解できるもので、なおかつ生き物であるという事に意味がある。神のような人が脳内で作った虚構ではないわけで、この時点でシン・ゴジラスタッフと私の間に溝がある。
私にとってゴジラは外はボロボロだが内には一本太い芯が通っている作品(シリーズ)なのだが、シンゴジラは外はゴツイ鎧を着ているのに中身スッカスカみたいな印象を受ける。日本人横綱誕生!と同じノリを感じてしまって、個人的にはそういう形で日本を応援したくないんだが。そもそも他の悪い作品と比較してコレすげーと評価するのは最低な行為だと思うのだが。
8.ファンが気持ち悪い
今ならアスカの気持ちがよくわかる。私はエヴァンゲリオンをリアルタイムで見てシンジに共感した人間である。シンジ=庵野監督なワケで、そういう意味では彼の事も理解できるし、認めるところは認める。何かの特集で子供達に会いにいく庵野監督が電車の中で立っているシーンが(当然実写)手前のつりかわの大きさや揺れ具合、社内をナナメ上から俯瞰した構図、微妙にゆれている監督みたいな感じでただ人が立っているだけなのにカッコイイ!とそのセンスに普通に驚いた人間でもあるわけだ。けど、それはそれ。
彼がアニメ界の冨樫義博である事もよくわかっている。ファンはやたらと生やさしい言葉で彼を褒めるのも、彼がやや精神が病んでいて作品作ってくれるんなら何でもいいやという思いがあるのもなんとなく予想できる。でもね。その「何でもいいや」でリハビリ的な扱いを自分の好きな作品でやられたらそれだけでカチンと来る人間だっているわけで。しかも冨樫はパクリ作家でも一応は自作なのに対して、こっちは他人の作品でしかも長い事続いていたシリーズの最新作なわけで。
冒頭で述べたようにゴジラは駄作だ。だからシンゴジラが駄作でも私は怒らない。それは仕方がない事だから。シンゴジラがこれだけヒットしたのに、福島から移住してきた子がいじめられるという事はやっぱりこの映画ではゴジラにミサイル打ち込んで、ゴジラとの決着が未解決のまま終わったんだろうなとわかってしまう。だから、「続きを書いてほしい」。けれどもこの作者は完結させなければならない作品を約束を破って完結させず、こっちへ来た人間なわけで、きっとゴジラも途中で逃げるんだろうな。と思ってしまうわけである。
そんなん言ったら可哀想だろ!というツッコミが入りそうだが、今の日本ににやりたくない仕事やっている人やメンタル弱い人、それこそ鬱病の人なんて山ほどいるわけで、これだけ実力が認められて、コネもある人間が途中でやめるとか言わないでほしいという事が言いたい。私なんかゴジラ愛がこんなにあるのにそういう話は一切来ないわけで、何でお前なんだよ!(しかも庵野はウルトラマンには思い入れがあっても怪獣には思い入れがない人間)という怒りでメラメラして、今ならケンスケの気持ちもよーく分かる。ファンの優しい態度も「こいつ変に刺激しなければ俺の望む作品作ってくれるだろう」みたいな態度にしか見えない。友人知人を真人間にしたいんだったらもっと別の言葉があるだろ!とそっちにも怒りである。
……長々してしまったが、最初に述べたように私は見ていない状態でこれを語っている。見たら180度意見を変えて「庵野ってやっぱ天才だよなー」と言うかもしれない。本当の評価は猫箱の中。