子供、戦場に立つ

 なかなかに面白い記事を見つけた。

なぜサトシは戦わないのか? ポケモンがRPG史に成し遂げた達成:「なんでゲームは面白い?」第五回

 まとめると、

ポケモンは主人公が戦わない後方支援型の作品
・アニメーターから見るとポケモンの主人公は傷つかず「卑怯」
・サトシはリンクと同じく経験値を必要としない主人公
・リンクの「弓」や「爆弾」が、ポケモンの「いあいぎり」や「なみのり
ゲームフリークはアクションゲームメーカー
・ユーザーの力量とサトシの力量がイコールという、アクションゲーム的な感覚
ポケモンの元ネタは『スタンド・バイ・ミー
・日常から始まってまた日常に帰るために、等身大の成長が描かれた
・「逃げ」ではなく、「ゲームをプレイする我々と同じ位置に立っている」

 多くの元ネタを引用するのはいいが、脇道にずれすぎて、全体として何が言いたいのが弱まり、結論がやや強引に感じた。とはいえ、言いたい事は分かったので、とりあえず補足してみようと思う。*1

 個人的に「へぇ〜」と思ったのが、日本のアニメーターから見てポケモン主人公の立ち振る舞いには違和感が残るという事だ。ここで「日本の」と付けたのには理由がある。多分、海外では同じ印象は与えないからだ。

 日本と海外ではレーティングに差がある。日本でOKなものが、欧米ではNGだったり、その逆もまた然り。遊戯王TCGで学ぶ表現規制でもチラっと触れたが、PEGIなんかで調べれば分かる通り、海外ではモンスター同士の戦いはそんなに厳しくレーティングされない。そのためポケモンメダロットのような後方支援型の作品こそ全年齢で遊べる。

 そのうちどっかのタイミングで語るつもりだが、キリスト教にとって子供とは神に近い存在なので、何が何でも守らなければならない存在なのであって、その子供を戦場に送るというのはあんまり考えないというか、最悪な事だという考えがキリスト教の影響が強い欧米では根強いのではないだろうか。*2

 海外でよく日本のマンガゲームアニメは女子供を戦場に出しすぎみたいな話題の原因もここにあって、日本のクリエイターの中には女子供であっても男やロボットだけに戦わせるのは卑怯だ!という価値観が子供が戦う主人公に選ばれる理由の一つなんじゃないだろうか。

 私はエヴァ放映当時から思っていた事なのだが、主人公シンジが戦わない事に対して否定的な意見が多かった事に驚きを感じていた。というのも私はシンジくんに共感しながら見ていたので、あの状況で戦い続ける選択肢があるとは思っていなかったからだ。このことは元ネタであるガンダムにまで飛び火してアムロレイの名前まで挙がったりする。けど、リアリズムで考えれば子供が戦場に出ればシンジくんやアムロレイみたいに苦しい戦いになるのが普通で、「敵をぶっとばしてやったぞ!やったー!」みたいなおバカなノリの方が不自然である。

 つまり日本のアニメの本流では、子供は力を持った存在で、本来願えば何にでもなれる超人である。だからポケモンのような誰か他人に戦わせて自分は何もしていない(ように見える)作品は違和感が残るのであろう。

 だが、私はポケモンに何も違和感を感じなかった。それどころかポケモンほど身近でリアリティ溢れる世界観の作品というのはなかったといっても過言ではない。

 まず、ポケモンの主人公はゲームでは11歳、アニメでは10歳だ。そんな彼らが冒険をする上で、「海を渡ったり」、「重い岩を押しのけたり」、「空を飛んだり」するのには理由が必要になる。これが童話であるならば、実は「主人公は王家の子孫」で選ばれた血統の人間だから特別な力を持っているとか、魔法使いがあらわれて「不思議な力をくれる」とか、スポ根ものなら「根性」でなんとかするとかいう発想になる。これらの発送の源泉は人間の神になりたいという欲求である。現実ではこんなダメな俺でも空想上はなんだって出来るんだ!という夢の力、全知全能感を満たすのがアニメの主流だと言ってもいい。

 でもポケモンはちょっとだけ毛色が違う。まず、人間はどこまで言っても人間であって、海を泳ぎ切るのは難しいし、岩を動かすことも空を飛ぶこともできない。けれど、ここに「人間の範囲の外側」に「人間を超える力を持った生き物」がいて、その生き物の力を借りる事によって子供達は何でもできるようになる。ここで必要とされるのは血筋でもコネでも精神論でもなく、「未知なるものと友達になる」というポケモンが対象年齢にしているであろう小学生が一番色濃く持っている資質なのである。

 さらにポケモンは細部にこだわっている。例えばポケモンは誰のいうことでもきくわけじゃない。つかまえたトレーナー(ゲーム内の表現を借りると「おや」)を覚えており、他人のトレーナーのレベル(バッジの数で表現される)が低いと「いうことをきかない」。つまりポケモンとトレーナーの関係を支えるのはたまごからかえったヒナのような育ての親子的な感覚や、バッジの数で示される尊敬や信頼の関係である。

 今では努力値という言葉で表されるようになってしまったが、隠しパラメータとして倒した敵が多い方が強くなるといったものがある。いっしょに冒険してきた方が、裏技で一気にレベル100にしたときより強くなっているわけで、大切に育てた方が強くなるというシステムを持っている。

 モンスターボールでの入手もほとんどが運頼み。弱らしたら必ず捕まるようなものでなく、運の要素の方が強い。子供からしたら大金の数千円を失う事を覚悟で、仲間になれと念じながらいくつものボールを投げるのである。

 このようにポケモンの世界では基本的にポケモン上位であって、ほとんどの部分でアンコントローラブルが基本なのである。そのなかで運良く仲間にできたのが手持ちのポケモンたちなのである。

 こういうシステムを前提としてシナリオが組まれているわけで、例えばどんなポケモンでも必ずつかまえられるマスターボールをねらうロケット団とか、ポケモン(自然)に対抗する形で機械的な装置を好む悪の組織とか、そもそもポケモンの敵組織というのは人間がポケモンの力を支配しようとしている人達なわけで、それらが他のアンコントラーブルが基本のトレーナーとは違っており、対比が生まれている。ポケモンの主人公である少年少女はそういう悪巧みに巻き込まれそうになったり、あるいは自発的に解決していこうとしている人達であって、決して人間の都合でポケモンを利用しているわけではない。この事はポケモンをちゃんと遊んでいればわかる事なんだが。*3

 「なぜサトシは戦わないのか?」の問いに答えるならば、ポケモンの世界では人間中心主義が存在せず、ポケモンの方が(アニミズム的な意味での)神に近いので、人は神にかなわない。そのかわりに人にはほんのちょっとばかりの知恵と勇気と、これまでの冒険で気づいてきた関係性があり、それを武器に神に力を与える。……なんか宗教くさくなったが、ポケモンの世界観ってそういう人間の立ち位置が重要なんだと思う。

*1:俺ってばなんて失礼なやつ

*2:フェミニズムがあるのでハリウッドではよく女も戦うが

*3:まぁ、アニメーターって多忙だし流行ものに触れろとか無理な話だが