ツッコミ不在の物語

 進撃の巨人はギャグ漫画としてとても優秀なのだが、シュールなギャグというのが一般の認識らしい。しかし、私が思うに進撃の面白さは王道を捻って、もう一度捻ったらまた王道と同じポジションになった笑いだと考えた方がいいと思う。

 日本は左側通行を採用したりする事を見れば分かる通り、割とガラパゴス化しやすい環境である。笑いに関してもそうであり、ボケとツッコミを基準とする「漫才」というのもマンガ・アニメなんかと同じように関西を中心とした日本固有の弥生文化である。関東ではとんねるずバナナマンおぎやはぎなどがいるが、関西ほど明確にボケとツッコミは別れなかったりする。

 漫才の特徴として、観客が笑うのは「ツッコミ」の瞬間である事が分かる。ボケの瞬間じゃないの?とお思いだろうが、テレビをよく見れば一目瞭然である。わかりやすいのはくりぃむしちゅーの上田司会の番組である。上田は新人だろうが、目上だろうが、他人が何気なく発したズレた表現を的確につっこんで面白い話に変えるのがとても上手い。

 つまり日本の笑いは「社会から逸脱したボケ」を誰かが言い出して「その逸脱を逸脱だと指摘」したり、「怒ったり」、「ちょっとバカにして納得したり」と、逸脱したものを社会的に正しい方向へ戻した時にホッとして笑うというのが日本でのスタンダードなのである。

 ちなみにスベリ芸というのもあるが、スベリ芸と普通のボケはボケのクオリティとしては全く同じなのである。では、なぜ「すべり」が起こるのかというと「周りのツッコミがへぼい」か、「ツッコミどころがわからないシュールなネタ」をうっかり言ってしまったというのが原因である。つまり、日本のボケはツッコミありきのボケである事が分かる。

 松本人志なんかはツッコミのいらないボケを得意とするが、最近はボケとツッコミの役割が変わってきたと表現するように、実はツッコミの方面でも才能がある事が分かる。つまり、日本では誰よりも常識的である事が笑いをとる上で重要な事なのである。

 ところが、そもそも日本には漫才以外の笑いがあった。それが「コント」である。わかりやすいのはドリフだ。いかりや長介というまともな人を志村や加藤茶みたいなボケでおちょくっていくという手法だ。ドリフもボケとツッコミじゃないの?という疑問を持つかもしれないが、ドリフではツッコミではなく、ボケ役がボケを演じた瞬間に笑いが起きるのである。このような「ボケで笑う」というのがアメリカがもたらしたエンターテイメントの主流であって、遡るとチャップリンがそうだったし、その影響を受けたディズニー、そのまた影響を受けた手塚治虫とこちらの方がスタンダードだったのである。

 ドリフ型ではトムとジェリーみたく、きまじめな堅物相手におちゃらけたキャラクターがちょっかいをだしたり、からかったりする様を楽しむというのが基準になる。今では優等生なミッキーもかつてはピート相手にいたずらしまくったように、コントの世界では、「社会」「規範」というものにたいして「思い切った逸脱をしてみせる」瞬間に笑うのである。つまり、漫才とコントは右ハンドル左ハンドルのように構造が逆転しているのである。

 「女子供」と社会的弱者同士同じ扱いを受ける事が多いが、漫才が若い女性に人気で、コントが子供受けするのを見れば分かる通り、両者の欲しいものや願望は全然違うという事も分かる。

 話を進撃の巨人に戻すが、進撃は女性人気が高いから漫才型なのか?と思われそうだが、違う。進撃はコント型なのである。

 三人が訓練生時代のエピソードがわかりやすい。立体機動が上手く扱えるようになって「どーだミカサ、これでもうお前の世話になる事はねーな」とアイコンタクトを送ったら、アルミンが「すごいよ!どーだ!って目をしているよ。」と喜ぶのに対して、一人神妙な顔つきをするミカサが「違う、(兵士をクビにならなかったため)これで私と離れずにすんで喜んでほっとしている」と困った子……みたいな異様な反応を示すという明らかなギャグシーンなのだが、このシーンのすごいところはまず、最後のミカサのボケに対して誰もつっこんでいないところ、つまり、登場人物は「え?」と思いつつもミカサとエレンが幼なじみで付き合いが長く、しかもミカサはめちゃくちゃ強くて実力者だったので、反発できる空気にないわけである。そして重要なのはエレンが心の声で「どーだ」って言っている事。これによってアルミンの解釈が正解であるという事があらかじめ示されている。だから、読者はミカサが大ボケをかましているという事に気づくわけである。エレンによる正解(つっこみ)があってから、ミカサの大ボケがあるのである。

 すごいのはこの構造がシリアスシーンでも同じだという事。冒頭のハンネスという兵士(というかおまわり)が主人公一家を助けようとするシーンでは、「オレは恩を返す!」とかっこよく出撃(正論)を言った後で、巨人を見てビビってごめんやっぱ無理と子供達だけを拾ってすたこらさっさと逃げる(ボケ)シーンに続く。人の生き死にに関わるシーンだからわかりづらいが、これはバラエティ番組で危険なアニマルと対面するロケとか、バンジーに飛ぶ前にでかい口をきいていたが飛べなかったタレントみたいな笑えるシーンと構造が同じである。正直、はじめてこのシーンを見た時は笑ってしまったくらいだ。

 そこはギャグシーンじゃねーよ。とツッコミが入りそうだが、そもそもチャップリンの劇にしても、チャップリンや観客は喜劇である事は知っている。けれどもチャップリンが演じているキャラクター自身は自分が人を笑わせるために生きているわけじゃない。彼らは彼らなりにまじめに生きているのを画面の外側の我々がおもしろおかしく見てしているのが笑いの王道なのである。バクマン以降はシリアスな笑いという言葉で片付けられるようになったものだが、これは邪道ではなく王道なのである。むしろ、ツッコミが存在する方が笑いや物語の歴史の中では邪道に近い。

 この事は陣内智則を横に置いて映画を見る事を想像してもらえばわかるが、たぶんつまらなくなることがわかるだろう。何で○○なん?とかこいつ○○やなぁ、というツッコミは我々を常に現実や社会に引き戻す。そのため、作品への没入感がどうしても薄れてしまう。例えばギャルゲーの中で泣ける作品というのが一時期流行ったが、病名不明の謎の病気で死んでしまったり、やたらと登場人物の目がデカかったりするわけでつっこみどころが満載なのである。裏を返せば目がデカいキャラが出てきても違和感を感じない人だからこそ、そこで不思議な病気が出てきても気にしない。つまりファンタジーとして見るのですべてが納得できるのに、ツッコミによって現実に引き戻されてしまうのである。

 進撃自体、立体機動ってリスクが大きすぎてどうなの?という話だが、そういうところをあえてつっこまない事で話が成り立っている部分がある。ツッコミをなるべくおさえて、ボケでひっぱる事で何が正解なのかわからないふわふわした感じを出して、作品の世界観を壊さない事が可能になっているのだろう。

 ツッコミ文化自体は日本固有の財産なわけでこれはこれで武器になるかもしれないが、物語作法としては実はあまり望ましいものではない。最近はニコニコ動画みたいなネットメディアの発達やブームによってお笑い慣れしているわけだから、視聴者をある程度信用して、これはこういうギャグなんですよという解説的なツッコミはおさえてもいい時代なのかもしれない。