哲学者ブッダ

前提:輪廻転生は仏教起源ではない - 鈴木君の海、その中

 仏教の伝えるブッダはあまりにも神格化されすぎている。例えば生まれた直後に「天上天下唯我独尊」と言い放ったとか、赤子がいきなり言葉を発するわけがない。ここではヒーロー「お釈迦様」ではなく人間「シッダールタ」の物語としてブッダを見ていこう。

 シッダールタは武士階級で身分的には決して低くない。その上、奥さんももらっているわけで、今風に言うならばリア充だったりする。しかし、そんな彼もインド人らしく生きる事を苦しいと見た。四苦八苦とは仏教起源の言葉だ。四門出遊(しもんしゅつゆう)という故事には東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、この世には病気、老い、死が存在し、それに生きるという苦しみがあるという事を知ったとある。そして北門から出た時に沙門というバラモン階級ではない出家者に出会い、沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになったという。

 その後、自身の子供が生まれた後に出家するわけだが、その当時のインドは16の大国とそれに属する多数の小国が争いをしている混乱期であり、シッダールタの生まれたシャーキャ国もコーサラ国に属していた。世界が戦争しているのにそれに参加するわけでも止めるわけでもなく、家族を守るわけでもなく出家。世の中が大変な時に世俗を離れるとかどう考えても現実逃避にしかみえないが、そういう人間くさいブッダこそ仏教を理解する上では必要な事である。

 例えばシッダールタは苦行を否定している。出家後に断食の修行をするのだが、途中で「こんな事をしていても悟りは開けない」と断念し、仲間からは「アイツ逃げたんじゃね?」とか言われる始末だったりする。その後、木の陰で休んでいるところ、スジャータという娘から牛乳粥をもらう事で回復し、その後その木の下で瞑想して悟りを開いたのである。つまり、出家の目的は心身を鍛えるためにツライ修行をするのではなく、真理を見つける事ためなのだ。これは哲学者になるという事と同義である。ブッダの目的とは修行者であることよりも真理を見つける事であり、ヨガファイヤーを放ったり、超サイヤ人になる事が目的ではない。

 極端な話ソクラテスプラトンなどと並んでシッダールタの名があってもいいくらいなのだ。しかし、ギリシャをはじめとする西洋哲学とインド哲学の最大の違いはギリシャが仲間内の議論を中心としたいわゆる民族やみんなのためのリア充の哲学なのに対して、インド哲学とは自分との対話によって導き出すぼっちの哲学なのだ。これはギリシャが誰でも対等な身分を持つ社会であるのに対し、インドは身分差が大きく、気軽に離せる仲間がいないということが大きい。つまり、世界とは何かという西洋哲学に対して、自分とは何か?という事に東洋の哲学は進んでいったのだ。

 では、哲学者ブッダの見つけた真理とは何か?それは「諸行無常」である。これは要するに「なにもかも…変わらずにはいられないです。」という事である。シッダールタは「この世の苦しみはいつか無くなるものに囚われ、それに執着するから起こる」と考えた。これが煩悩(ぼんのう)である。この世には永遠など無く、人は存在しない物にこだわっているから苦しいというわけである。では、煩悩から開放されるためにはどうしたらよいか?それは涅槃(ねはん、ニルヴァーナ)を目指す事である。

 日本の仏像は直立不動で立っていたり、あぐらをかいて瞑想をしているが、タイの仏像は寝そべっているのをご存知だろうか?ものすごくふてぶてしい態度にみえるが、これこそが仏教の理想像なのである。これは涅槃像といって正にブッダが悟りを開いて涅槃に至った姿なのである。どういう事なのかというと、これは人生においてやることをやりつくし、「燃えたよ、燃え尽きた、真っ白にな……」という状態なのだ。自らの心に宿る煩悩の火を消し、いつ死んでもいいというこの状態に至ることこそ仏教における解脱への道なのである。

 そしてこの考えは、それまでインドで主流であったバラモンの教えに反するものであった。バラモンの哲学においては「アートマン(我)」という永遠不滅の魂が存在し、それによって輪廻転生が起こっている。ようするにこの「我」があるので、生前の行いだとか、死後の運命が決定されるという世界観が作られ、ヴァルナのような苦しい階級が生み出されているとされた。しかし仏教においてはこの「我」は否定される。輪廻の苦しみから解脱するためには、真理に至る必要があるが、仮にそういった真理に至った我があるのならば、その魂は生まれ変わる事がない。つまり、人にも虫にも牛にもならないので、これでは新しく生まれてくる生命を説明できない。真理に至る我がレアケースだからとすると、今度は至れないという事は人は何らかの業をまた積んでしまうわけで、結局苦しみから逃れる事は出来ないという事になる。生前だ、死後だといっても結局生きている人の苦しみを救えるわけではない。我なんていう目に見えないものではこの世界を説明できない。この世は「無我」である。こういった「アンチバラモン」の思想こそ仏教の真の姿である。

 こういった側面を持った仏教はバラモンに懐疑的な人々に支持を集めた。当時のインドでは、クシャトリヤやヴァイシャが力をつけた事により、従来のバラモンを否定する様々な思想家が生まれていた。例えばジャイナ教もそうだ。これは不殺をテーマにした宗教で、動物を神に捧げるバラモンヴェーダ祭式に反発して興ったものである。

 シッダールタは社会からは逃げているように見えるが、別の見方をすればルールに縛られず、何が本物で何が作り物か見抜く力があったといえる。それはつまり、目に見える現実からこの世の真理を見つける。つまりフィロソフィー。哲学を持っていたのだ。宗教の始祖と思われがちだが、彼は意味不明な苦行は否定、王族であるにも関わらず死後に「俺のでっかい墓つくって」とも言わず、生前からの我が現世にまで残っているとは考えず、現実に苦しんでいる人達を救うにはどうすればいいのか考える。ひょっとするとシッダールタは俗世からは逃避したが、現実からは逃げていなかったのかもしれない。

 これだけ人々の心の救いを見出した仏教だが、インドで根付かなかった。結局のところそれは、仏教がそれまでの民族宗教とは違い、信仰ありきの新興宗教だったからだ。

つづく